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カルサレス卿の獄中記(22)
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 そうだ。私は私でしかない。
 そのことがなぜか今胸に迫った。
「おかしなもので、私は」
 照れくさくて鼻先をポリポリかいた。
「山で私をまいた、道案内の男にさえ感謝したい気持ちでいるんです。彼を雇った村に行けば、また会えるだろうか」
「いやいや」
 ネグトレンが呆れている。
「故郷の村になんか戻っちゃいませんよ。旦那から巻き上げた金を持って、とっくに都会へ出てったはずだ」
「そうか」
 私は彼方の雲を目でたどり、どこか分からない空の下にいる田舎者を思った。
「彼も幸運に恵まれるといいなあ。私のように」
「若ったらどこまでもお人がいいんだから」
 でもと言って、姫はふわりと頬を押さえた。
「若のそういうところを、領民は皆お慕いしているのですわ」
 私の胸を、また何かがきゅっと締めつける。
「頼りない領主で申し訳ない、何かにつけ」
「“これぐらいのことで、恩着せがましくはいたしません”」
 私はこれまでずっと、頼りないのを褒め言葉のように言われて来た。領民は私の墓の前で“あのお優しい若さま”と泣いてくれるだろう。キエト少年のように、後世に徳を称えられることだってあるだろう。だがそれは皆、なにもかも終わった後だ。たおやかな姫が私たちだけに通じる冗談を言って笑った奇跡のような瞬間も、ほら、あっという間に過ぎ去った。
 今さら気づいたが、私はまだものすごくこの世に未練があった。
「またお会いできて本当に嬉しい、姫」
 塔で過ごした日々は、思い返すにつけ、なんと言おう、他人ごとのように平穏であった。身代金は高額で、頼みのベレンツバイからは反応がなく、家には金がない。手詰まりの袋小路。
 初めてシバムのこちらへ出て右も左も分からぬ私は、めまぐるしい成り行きに呆然とするほかなく、やけっぱちに泰然自若としていた。
「もう二度とお目にかかれないと思っていました …… ガッコへの嫁入り支度を始められたんだと」
 そうなれば、姫と私を隔てるものは河だけではない、かの大シバム。平原にいた頃の比ではないのだ。思い悩むのをやめて見わたせば、塔では日々そこそこに旨い食事が供され、窓の下をぴちぴちした娘たちが行き交う。虜囚だの不遇だのと、騒ぐほどのことがあろうか。私はまるで、夢を見ているように毎日を過ごしていた。
 こうして目を覚まさせてもらえなかったら、私の夢はどんな無残な終わりを迎えたことだろう。
「姫」
 今の気持ちを言い表す、うまい言葉がみつからない。
「私の命がなんとか永らえたのも、ネグトレンがいてくれたおかげです」
 姫がにっこりと笑う。
「命の恩人ですわね」
「うん」
 そろって振り返ると、私と姫の感謝のまなざしにも、ネグトレンはただ肩をすくめた。
「ネグトレン」
 私はまっすぐ向き直り、菜園の柵を握りしめた。ずっと気になっていたことがある。
「イウォリ隊長愛読の、あのカールス大王 ……
「カーサル大王。覚えてくださいよ。それこそ命の恩人なのに」
 そうは言っても、こちらが勝手に名前を利用したのだ。大王に私を助けるつもりなどなかったろう。
「そのカーサルだが。補記というのは、製本された書物に別紙をはさんだり、余白や欄外に書き付けたりして、あとから誰かが書き足すものなのだろう?」
「それが何か」
 私は舌で唇を湿した。
「隊長の蔵書に、お前は …… カルサレスの名をこっそり書き加えたのではないか? 隊長が私を貧乏貴族でなく、由緒ある大家と勘違いするように」
「まさか。隊長がそのページを読むかどうかも分からないのに。それに私が旦那の貧乏ぶりを知ったのは、ご領地に最初に手紙を届けに行ったおりですぜ」
「あ、そか」
 私は拍子抜けして額を叩いた。
「そのときお前が届けた手紙には、私の身代金がすでに大貴族としての額で記されていたのだっけ。ええと、ではカーサル大王の髪の色は …… ?」
 ネグトレンはしたり顔で唇をこすった。
「そいつは確かにでっちあげました。勢いで押し切るには見た目に訴えるものが必要で」
「史実としては、どうなのだ? 大王の髪は」
「さてね。昔の王さまの王冠の下が何色だったかなんて、記述によってまちまちでしょうよ」
 ネグトレンはえいしょと柵に寄りかかり、深く両肘をついた。表情は影になって分からない。
「面白いじゃありませんかね。どっかの誰かが“カーサル”と“カルサレス”、音が似てるってだけで引き合いに出した大王に、何百年ものちの我々が、こうして救われた」
 私のほうは柵を背にして夕日に向かった。
「うん。面白いな、ネグトレン」
 いつの間にか、こやつの中で“カルサレス”が“我々”になっているのだ。私は夕日がまぶしくて目を細めた。
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