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カルサレス卿の獄中記(21)
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 日が傾く。
 長い影が中庭に落ち、私たちを半ば覆った。
 私は姫と連れ立って夕焼けの中へ出た。
 寄り添って手でも握りたいところだが、私は塔に移ってからというもの、衣は着たっきり、小さな桶の湯でなんとかしのいでいた体だ。香水でもあればいいが、ここにあるのは馬具を磨く香油ぐらいだろう。
 姫のほうも旅の汚れを気にするだろうし、私たちは慎ましく三歩ほど離れ、菜園の傍で並んだ。
「シバムの山は壮麗でしたわね」
 なんとなくため息をつき、私たちは西の方を見やった。
 輝く空を切り取って、高い城壁よりもさらに高く、影絵のような山脈が横たわる。いま日が落ちていこうとしているのは比較的低い峰で、そこから少しはずれたあたりにそびえ立つのが大シバムの最高峰だ。名は何というか知らない。
「デセラート峰を超えた時には感動しましたわ」
 彼女には山岳案内を聞く余裕があったのだ。私にはいい思い出などなかった。
「私は悲惨でしたよ。案内の男とはぐれてからは、ぐるぐる迷いながらの山道だった。歩けど歩けど新たな谷にさえぎられて」
「いったん迷うと山は恐ろしいところですのね。のんびり景色を楽しんでいてはいけなかったかしら」
「あなたの場合は、案内人がよかったのですよ」
 私は中庭を振り返った。やはりネグトレンはそこに控えていた。目が合うと、ただひょいと肩をすくめる。
「従者たちはどうなったろう。捕まったって私のように、身代金目当てに命を助けられたりはしないだろうな。かわいそうに」
「ああ、従者がた。見つけましたぜ」
 ネグトレンはぶらぶらとこっちへやって来る。
「どこでだ? カルサレスの皆と一緒ではなかったようだが …… やはり死んで」
「いやいや。行商人たちのツテをたどったんでさ。うんと北のほうで行き倒れてたそうで、まだ村人の家で手当てを受けてるらしいが、なんとか命は助かってる」
「よかった」
 私は大きく息をついた。
「その村には充分に礼をせねば。しかしここからまだ北へ向かっていたのか。目指したエンデシュ原は、聞けばずっと南なのに」
 ネグトレンがフンとうなずく。
「山を知らないおかたは降りよう降りようとするから迷うんで。シバムは特に、低い峰ほど、越えても超えても別の谷が折り重なっている」
 指でトコトコと山道を下る仕草をした。
「降りやすい道を選ぶほど、目指したのとは違うほうへ違うほうへ連れてかれちまうってわけで」
「うーん」
「従者がたは、旦那のために必死に道を探していたんでしょう。どんどん迷ってしまったんでさ」
「じっとしていた私は、かえって運がよかったのだなあ」
「若。敵兵に見つかったのが、運がいいなんて」
「あ、これは」
 私は頭を下げて小さくなった。
「ええと、カルサレスの皆には、本当に心配をかけて ……
「はい、心配いたしました」
 きりりと両手を腰に当て、彼女のこういうところが、実は苦手だ。
 立派に家督を継いだ私が、地元でいまだに“若”呼ばわりを卒業できないでいるのも、有力者ベレンツバイ家の姫が、この幼いころからの呼び方を、いつまでたっても変えてくれないせいではなかろうか。
 まあ身の丈以上の敬称で持ち上げられる怖さは身に染みたし、若造なのも本当だ。
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