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カルサレス卿の獄中記(2)
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 慌てた拍子に後頭部をぶつけた。
「ネグトレン」
 頭をさすりながら振り向くと、独房扉の覗き小窓に、牢番のネグトレンのニヤニヤ笑いが張り付いていた。
「よっく首をお出しんなりゃ、充分下まで聞こえましょう。言っておやんなさい。ツオダイで、そんな布告は耳にしなかったと」
「いや、楽しみに水を差しては悪いし」
 がちゃりと錠が鳴った。大きな盆を支えたネグトレンは、スタスタと室内に入ってくる。
「それに、私もツオダイのほうに行ったことはないから」
「んなこた関係ありませんやね」
 鍵束をベルトにしまいながら足で扉を閉めるあいだも、大きな盆は小揺るぎもせず、滑るように小卓へ向かう。
「関係ないのか」
「遠くから来た旅人ほど、嘘が大きいと申しますでしょう」
 頭の中をのぞかれたかとギクリとした。親しく過ごしているせいだろうか、この男には近ごろ考えていることをほとんど言い当てられてしまうのだ。
「これは、遠くから来た旅人ほど嘘がバレにくいって意味んなる。違いますかね?」
 話しながらネグトレンは流れるように食卓を整え始めた。私も自分で丸椅子を運び、定位置に据える。
 ガタつく粗末な小卓も彼の手にかかると、王侯の晩餐のような雰囲気が漂い出すから不思議だ。ぱりっと洗濯された手巾が添えられているのも心憎い。
「旦那だって連中に取っちゃ、ツオダイと同じくらい遠い辺境から来たお人だ。行ったことがある、ツオダイなら自分もよく知ってると、旦那が強くおっしゃれば、ああそうなのかと素直に飲み込む奴らですよ」
「そうだろうか」
 私は手巾を取って襟元に押し込み、まずは食卓の眺めを楽しんだ。粥は兵士たちと同じ鍋から取ったものだが肉は煮込んだのや焼いたのやさまざまあり、品数は豊富だ。
「あの男が、ツオダイでしか見られないこういうものを知っているかと言って、私を試してきたら?」
 小ぶりのピッチャーに鼻を近づける。
「こちらからも、では例のあれを知っているかとやり返しゃいい」
「ふーん。すーはー」
 相づちのついでに香りを楽しんだ。少量だが毎日出るワインは、駐屯部隊の隊長どのの樽から出される上物だ。
 意地汚い兵士もいて、持ち回り仕事である牢番の特権とばかり、ピッチャーから半分ほども飲んだあとに悪い酒が足されていることもあった。しかしこのネグトレンが食事の盆から物をくすねたことは、これまでのところ一度もない。
 食い物を基準に人を判断するようになってしまった自分がちょっと情けなく、私はピッチャーを押しやった。
「例のあれとは……何か適当にでっちあげるのか」
「面白いやつをね」
 ネグトレンは楽しげに言って、簡素なカップに酒を注いだ。
「連中にとって大事なのは、どっちの話が本当かではないんでさ。どっちの話が面白いか。これに尽きましょうよ」
「出来のいいホラを吹いたほうの勝ちということか」
 私はナイフで肉片を突き刺した。お行儀悪くかじりつく――アタリだ。
 料理女の中にひとり、肉とソースの官能的関係について悪魔から奥義を盗んできた者がいるらしく、たまにこういうとびきりの一品が出る。私はゆっくり咀嚼した。
 どろりと濃い肉汁は香草が効いていて、精妙な香りが鼻に絡んでは消えた。ひと口ごと、ひと舐めごとに新たな色欲をそそられるので、魂を盗られると分かっていても悪魔の取り引きに乗ってしまう空腹の旅人さながら、最後のひとしずくまで舐め尽くさずにいられない。これでうまいチーズでも数種あれば、もうこの独房を終(つい)の住みかと決めたいほどだ。
 ―――などと私が考えていることも、この男にはすっかりお見通しなのだろうか。ニヤニヤ笑いが引っ込んでも、顔立ちが軽薄なのでいつも何かを面白がっているように見える。何か……がっついて食べる私の顔を? 慌てて口元を拭ったところ、手巾にはシミひとつ付かなかった。口の周りのソースは残さず舐め尽くしているのだから当然だが。
 ネグトレンはぷいと窓穴に向かう。
「連中、華やかな前線で手柄を立てる機会はしばらくないと分かってる。退屈な後詰め任務の、いいヒマつぶしを探してるんでさ」
 そう言って壁にもたれると、ズボンの膝でブーツのかかとを磨き始めた。給仕らしく背後に直立で控えるなどということはしない。平民に馴れ馴れしい態度を取らせて黙っているべきではないのかも知れないが、この男にはなぜか、それを許してしまわせるところがあった。
 年は二十四になったばかりの私より、上にも下にも思える。若いのに私よりしっかりして見えるのか、ふてぶてしい外見どおり私より上なのか、いずれにせよ私のほうが人間的重みで負けているのは明らかだ。意味もなく悔しいので、絶対に年は訊ねない。
 また、窓から遠い嬌声があがった。
「ヒマつぶしか」
 私はカップの中につぶやいた。
「特に今は、私という退屈な虜囚を見張る以外することがないのだからな」
「あれ、そう腐りなさんな。女たちだってあんなキザ野郎どうとも思っちゃいませんさ。旦那のほうが男前男前」
 憎らしい口調だからこそ、ムキになってはいけない。髪に牛小屋の干草をくっつけたような百姓女たちにチヤホヤされることが、わびしい捕虜生活の唯一の慰めだなんて認めてしまったら、自分がみじめになるばかりだ。
「おや、それは嬉しいね」
 私は最後の肉片を使って、悪魔のソースを器の端に集める作業に集中した。
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