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赤毛姫の憂鬱(10)

「エジマは扱いにくい一族だと自負しておりましたけど、ベレンツバイも相当ですのね」
 卿がくすりと笑った。
「あのひとは筋金いりです」
 みるみる小さくなる黒鹿毛の疾駆につられたのか、ぶちがそろりと歩き出した。重心で歩みに合わせてやりながら、ほどよく手綱をしぼる。
「レディ・カタシア」
 振り返ると、カルサレス卿が馬を寄せながら、手のなかの小さなものを差し出していた。
「湖沼地帯で採れる、珍しいものらしいのですが」
 受け取ろうとしたが、手綱から手を離すのに、私はしばらくかかる。片手に手綱をまとめようと、私がもたもたしていたら、卿は私の顔のまえまで腕を伸ばしてくれた。
 そのとき、近づきすぎた卿の靴先が、どっしりと張り出したぶちの立派な横腹を、ぐいと突いた。
「あっ」
 ひょこりと跳ね、大きく歩調を変えたぶちの背中から、私は完全に重心をはずしてしまった。
「いけない」
 鞍からずり落ちながら走る私を、卿が抱きとめる。
「足をはずして」
 じたばたとさせ、あぶみを蹴りはずすと、私の体は一瞬宙に浮いてから、卿の胸元にどすんと落ちていた。
「本当に、どうしようもないな、まったく」
 馬術の下手さを言われているのかとドキリとしたが、痛いほど力を込めて私を抱え、卿は自分の不注意をののしっているだけのようだ。
 先に行ったぶちは、ちっともかまわないと言いたげに、嬉しそうに首を振っている。
 卿の礼服の胸元に、ふわりと甘い香りがした。
「あ、りんご泥棒」
 なんのことかと、卿が私を見る。
「丘りんごの香りが。たくさん食べて、いつまでもりんごの香りをさせている人のことをそう言いますの。ふところに隠して盗もうとしても、丘りんごは香りでわかるという意味で」
 顔の近すぎる距離にまごつき、私がまくしたてていると、卿はそろそろとふところに手を入れ、小さなりんごを取り出した。
「あら」
「レンダーのやつも、さっきはこれを嗅ぎつけたのかな」
 確かに黒鹿毛は、しきりに卿のお腹に向けて首を伸ばしていた。一度食べただけなのに、よほど味をしめたようだ。
「慣用句でないほうの、実際のりんご泥棒はどれほど重い罪になるんだろう。証拠を消してしまってくれませんか」
 どうぞ、と卿が私の手のなかにりんごを置いた。
 顔をあげると、つややかな目がすぐそばにある。
「さっきはひとつも食べられなかったでしょう」
 どこか漠然と、黒檀のようだろうと想像していた卿の瞳は、ふちのあたりに優しい茶がさしていて、砂浜があって、私がいた。
 この瞳に、宴のあいだもずっと私がうつっていた。
 私は胸がいっぱいになって、手のなかの実をぱくりとかじった。
 かりっと硬い音をたて、かじり取った小さなかけらは、水気を含んで思いがけず柔らかい。口のなかにとろんとすべり込み、はかなくほどけて消えてしまうが、甘くて濃い香りだけは、遠い夢の名残りのように、いつまでも残るのだ。
 軸をぷちんとちぎった残りも、あっという間に食べてしまった。
「慣用句表現としても、罪人としても、晴れて我々はりんご泥棒の共犯ですね」
 なにか洒落た返事をするべきだと、けんめいに考えたが、しまいに卿の顔が近づいて、唇をふさいでくれた。

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