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赤毛姫の憂鬱(9)

「あ、誰か来ます」
 私が鞍の上で伸び上がると、カルサレス卿も振り返った。
 派手に砂を崩しながら斜面をおりてくるのは、ベレンツバイの黒鹿毛だ。
「奥さま」
 頭になにもかぶらず、髪を乱したベレンツバイの奥さまは、砂浜をまっすぐ駈けてくる。
「あなたが笑ったから、安心したんだな」
 奥さまはあと少しというところで馬を制すと、円を描いて歩かせながら、私をじっと見た。
「レディ・カタシア、そちらへ行ってもよろしいでしょうか?」
「はい。あの、どうぞ」
 どぎまぎと答えると、奥さまはガバリと鞍を越え、砂のうえに降りた。
 愛馬を引き、さくさくと砂を踏んで近づいてくる。
「あの ……
 私も馬を降りたほうがいいのかと、カルサレス卿を見ると、卿はひょいとこちらに身をかがめた。
「はずしましょうか」
「いいえ、いらしてください」
 卿がそのままニコニコと馬上におさまっているので、私も高いところから奥さまを見下ろした。
「レディ・カタシア」
 張りつめた声で言い、奥さまは私を見上げた。
「恥しらずな女だとお思いでしょうね。なに食わぬ顔で、お芝居をして。あなたの無垢なお心を踏みにじって、私は」
「待って、待って」
 懺悔(ざんげ)のような言葉が並びはじめたので、私は慌ててさえぎった。
「やっぱり、カルサレス卿には席をはずしていただきましょう」
「いや、聞きたいな」
 卿は面白そうに腕組みをした。
「ベレンツバイの奥方の悔悛の言葉なんて、めったに聞けるものじゃない」
 奥さまはギロリと目だけあげて、卿をにらんだ。
「もちろん、わが殿にも同席いただきます。殿の大切なかたを、傷つけたのですから」
 “大切なかた”。
 頭のなかで、ベレンツバイ卿の声をした私が言った。
 ―― 気をつけたがいい。一枚も二枚もうわてをいく奥さまのこと。こう言えば、うぶな娘は手もなく舞い上がるという計算のうえだ。そうに決まっている。
 だって実際、てきめんだもの。
 “大切なかた”。
 海風に、体がふわりと飛んでいきそう。
 奥さまは両手を祈るように組み合わせ、一歩近づいた。
「それから、髪のことも、私のせいなの。おかわいそうに、どんなに苦しまれたことか」
「髪?」
「エジマの皆さまが姫に髪を結わせなかったのは、より赤く見せるためだと聞いて」
 奥さまは両手をぐいぐいともみしぼっている。
「私が姫の髪を何度も赤毛、赤毛と言って、カルサレス卿は赤毛をお好きだと繰り返したせいですわ。私、自分が黒髪ですから、ほかの髪色については、区別が大雑把で」
「まあ、私の髪は、栗色というにしたって赤いほうなのですけど」
 私は頭に手をやった。馬の背にかなり揺られたので、工夫をこらして結い上げた髪も、だいぶゆるんで崩れてきている。
「髪のことはこちらが勝手に思い込んだことですし、馬丁のことも、その、だって」
 私はほつれ落ちた髪をひとすじ、もじもじと指に巻きつけた。
 確かに、あんな風にだまされたことには、ゾッとして、恥ずかしくて、傷ついた。
 だけど私には、魔法の言葉がある。
 “大切なかた”。
「奥さまは、私が自分から話を切り出せるように、いつもギリギリまで水を向けてくださっていましたわ」
「まあ、なんてお優しい」
 言葉とはうらはらに、声には怒気がこもっていた。なんで。
「そんなことでどうなさるの。戦乱の世ですのよ。すぐ隣にいる人間が、なにを考えているか、知れたものではありませんのよ」
 奥さまは頭を振りたて、両手を腰に当てている。
「毎日、馬丁との間合いをはかりながら、私がなにを考えていたものか、姫君はご存知でいらっしゃる?」
「もちろん、レディ・カタシアはあなたの心中なんかご存知ないよ、言って、言って」
 卿のはやしたてるような合いの手には取りあわず、奥さまは憤然と続けた。
「私、馬丁が姫に恋をささやいてはどうかしらなんて考えていましたのよ。そこへカルサレス卿があらわれて、あざやかに奪い返す。夫には、少女趣味すぎると、却下されましたけど」
 私はなんと答えるべきなのだろう。
「奥さまが案を出されることもあるのですか」
「ええ。でも、ほとんど採りいれてもらえませんわ。私の発想は、なんだか実際的ではないらしくて」
「はふふ、はは」
 静かだと思ったら、カルサレス卿は声も出せずに笑っていた。
「ゆる、許してやってください、姫」
 途切れ途切れに言いながら、卿は苦しげにもだえている。
「このひとはこのひとで、苦労しているんですよ、二枚舌の男と一緒になってしまって」
「二枚じ …… 殿、それはあまりな」
 息を切らしながら、卿は片目から涙をぬぐった。
「夫が自分にも嘘をつくんじゃないかと、いつもビクビクしているんです。だまされるがわにならないためには、自分が夫の嘘の一部になるしかない。謀略に一枚かむしかないんだ」
 奥さまは口をぱくぱくさせ、砂のうえで足踏みした。引きつれている黒鹿毛まで落ち着かなくなる。とことこと歩き出した愛馬を、奥さまは苛立たしげに引っぱった。
「軍師の妻の心情を、よくおわかりでいらっしゃること」
 つんとすましてみせ、奥さまはなんとか威厳を取りつくろったが、卿はますます意地悪げに笑った。
「わかりますとも。もう少し隠したらどうかと思うくらいだ」
 卿は私のほうに体をかたむけた。
「取りすまして見えて、このひとは自分の夫にぞっこんなのですよ」
「知りません」
 奥さまはくるりときびすを返した。楽しい会合にまだ心残りを見せている愛馬を引っぱって、砂浜を行きかける。
 と、怒ったように歩いて戻ってきた。
「これ、夫からことづかりました」
 小さなものを卿の手の中に押し込んでから、かじりつくようにして鞍にあがると、ぷりぷりしながら浜辺を駈けて、行ってしまった。


 私はあのひとを、ハーミナと呼べそうな気がする。

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