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赤毛姫の憂鬱(8)
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ぶちは矢のように駈けた。
私は指示を出す余裕もなく、ひたすらたてがみにしがみついた。
馬の走るまま、どこへでも行ってしまおうと投げやりになってみたが、なんのことはない、ぶち馬は、いつも楽しく駈け回らせてもらえる砂浜を目指していた。
今日もよい天気だ。海から、いいにおいの風があがってくる。
陸地がたっぷりと陽射しを浴び、海水よりも暖かくなると、空気が動いて、海から風をまねくのだそうだ。さすが南ユワクは晩秋でもまだこんなに陽射しがつよいと、ベレンツバイの奥さまがしきりに感心していた。
砂浜を端から端まで走らせていると、小高いあたりに数騎の馬影が見えた。
一騎を残し、ほかの馬はすぐに防砂林の中へと消えた。
「ずいぶん早く駈けましたね」
カルサレス卿は自分の芦毛(あしげ)にまたがって、砂浜をおりてきた。
私は、はしゃいでいるぶち馬の首を叩いた。
「荷車を引かせていた子ですから、走れるのが嬉しいんです」
「そんな馬を。あぶないですよ」
「でも、軍馬もだいぶ減ってしまって」
ぶちのでたらめな足はこびを、卿はとがめるような目で見つめている。
「調教したベレンツバイの馬をお借しするのに」
「乗馬のできる馬くらいエジマにもあると、うちの者は意地になっておりましたから」
私が言うと、卿はああと曖昧にうなずいた。
「こんなひねくれたことだから、ややこしい方法で本心を探っていただかねばなりませんでしたのね」
言ってしまってから、ぶわりと顔が熱くなった。さっきまで血の気が引いていたぶん、まるで圧をためこんで吹き上がるようだ。
いま気がつきましたが、そういえば隠密を残していったということは、湖沼地帯へおでましになるまえから、卿は私に決めてくださっていたのですねえ。おやおや。
頭のなかで、あの馬丁、いやベレンツバイ卿の口調を使ってみる。いたたまれなさは変わらず、私はぶるぶると首を振った。
「さぞお怒りでしょう」
卿がゆっくりと芦毛を近づけた。ゆるく束ねた黒髪が、風にほつれている。すらりとした首と、よく手入れされた乳色のたてがみ。
いや、たてがみは馬のことだけども。私が芦毛の首より後ろをまともに見られなくなっているという話だ。
「スパイされていたなんて、ご婦人にはどれほどの衝撃か」
視野の端で卿がため息をついたが、どう答えていいかわからず、ぶちが方向を変えたのをしおに、顔全体をそむけた。
「馬で行かれたとネグトレンに聞いて、落馬でもなさっていないかと、気が気ではなかった」
背後から卿のこわばった声がする。すぐ脇に芦毛の顔があった。深い色の大きな目が私をチラリと見て、私たちはしばらくまじまじと見つめあった。
「少し時間をおいて追いかけるよう言われたのです。お引き止めしたりして、あの場でゴタゴタしてたようすを見せては、ご一族が心配されると」
私は前を向いたままうなずいた。宴席を放り出してきたことや、まして一族のことなど、すっかり忘れていた。
「ありがたいご配慮ですわ。私も、こんな風に飛び出した理由を、あれこれぜんぶ両親に説明せねばならないのは、煩わしい」
――
特に、怪しげな馬丁と親しく言葉を交わしていたくだりなどは。
私はまたしゅんとして、ぶちに揺られていった。
いいえ、と言って卿が芦毛をひと足だけ駈けさせ、横についた。
「やはり、すぐに追いかけるべきだった。私はあの男の助言をいれるのがクセになっているんです。自分が許せません。体裁のなんのと迷っている場合ではなかった」
風が変わり、何か重要なことを言われると思った。
「あなたが怪我でもなさっていたら、私はあの男を斬っていた」
私は顔をあげ、卿とまともに目が合い、慌てて芦毛のたてがみを眺めた。芦毛はどこか先のほうを見ていて、もう私への興味を失っているようだ。
振り返ると、卿の漆黒の瞳が変わらず私を見ていた。
私はだらりとさせていた手綱を握りなおした。
「私をスパイして侮辱したやり方は、おとがめにならないの」
「
……
あの男の仕事です」
痛いところを突かれたという表情だが、答えに迷いはない。
「しかも、失敗です。あなたに見破られるとは、思っていなかったらしい」
「私は何も知らずに、だまされたままでいる予定だったのね」
「見抜かれた以上は、すべてお話したほうがいいと、あのような無神経な言い方に」
「信頼しておられるの」
何を問い詰めたいのか、自分でもよくわからない。ただ、もう少し彼が話すことを聞いていたかった。もっと別の言い方で、さっきのような言葉が聞けたら。
「ペテンのようなやり口を使うと、世間に言われているのは知っています。我々はまだまだ新興勢力で、善良なだけではたちまち押し返される。したたかでなければ」
「したたか
……
人の気持ちを操って、もてあそぶのが?」
思いつくまま、なじるような言葉になっても、目を見ていればだいじょうぶだと思った。あの深い色の目に向かって話せば、伝わると思った。私がただ、話を聞きたいだけだということが。
「乱世です。ちょっとした油断や失点が、致命傷になる」
「時代のせいになさるの」
「
……
はい」
「自信がないのですか」
「ありません」
卿のまなざしがあたりをさまよう。
「臆病だとお嘲(わら)いでしょう。相手が断らないとはっきりわかるまで、結婚を申し込まないなんて」
そういえば、花嫁候補を掠め取る話を、あの馬丁は“カルサレスつぶし”と表現した。
けっきょくエジマと同じではないか。はねつけられるのを恐れていた。
カルサレスが、そう磐石な場所からこちらを見下ろしているわけではなかったという事実は、私を
――
ほんの少し、いい気持ちにさせた。
「確証がなければ、動けなかった」
卿は続けた。私は目を見た。
「婚姻は、外交手段のひとつです。外交ということは戦争だ。土壇場で申し入れを蹴って恥をかかせ、メンツをつぶして勢いを削ぐ戦法というのも、充分あり得る」
このへんはなんとなく、ベレンツバイ卿の口調がにおう。
自分の頬がちょっとゆるむのがわかった。皆が、あのひとの言葉の切れ端をぶらさげている。
私もさっき使ってみてわかったが、きっと、ものごとを違う角度から眺めてみるのに便利なのだ。あの、斜にかまえた口調は。
卿の黒い瞳が、何かの理解にまたたいた。
「参ったな」
卿はゆっくりと笑みを広げ、わかりますか、と言った。
「はい」
私がわかったのを、彼もわかったのが、わかった。
「軍師どのの受け売り」
同時につぶやいてから、ふたりで笑った。
誰かと声を合わせて笑うのは、苦みばしった謎の男を笑わせるより、ずっと素敵なことだ。
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