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赤毛姫の憂鬱(3)

「あ、あの」
 私がぎゅうぎゅう手綱を握りしめるのを、奥さまは楽しげに眺めている。顔が熱い。
「もちろんすぐにお戻りですわ。可愛らしい赤毛の姫君にまたお会いできるのを、とても楽しみにしておられるもの。ややこしい条約会議など、本当は投げ出してしまいたいのよ、あのかた」
 最後はどこか気安い口調になって、ふふと笑った。
 私は頬をほてらせたままつぶやいた。
「奥さまは、卿とは幼なじみでいらっしゃるのですよね」
「ええ。子供の頃から本当にのんびりしたかたで、こんなことで将来だいじょうぶかしらと、心配になったものですよ」
「まあ」
 このへんは、うわの空のあいづちになった。砂浜の高いところへさしかかったので、行く手にはゆるやかな登り下りが現れ、足元に集中せねばならない。
 奥さまのほうは、ほとんど意識もしていないようすで、軽々と手綱をあやつっていた。
「今度の会議で諸侯に承認されれば、あのかたの称号はまた変わりますのよ」
「そうですの」
「なにか、あっさりした公領名にまとめるのですって。“北ユワク公、リオノ・カルサレス”あたりかしら?」
 私はなるほどとうなずいた。
「北ユワクはもう、ほとんどが卿の支配下に入ってしまいましたものね」
 何だか敵対的な言い方になってしまい、慌てたが、奥さまはのびのびと愛馬を進めた。
「地方領主の騎士がたから、忠誠の誓いを受け取ると、そのたび名前が長くなって。“カルサレスとプノールンプルンとニーデルとツオダイとその他うんぬんの統治者”、といった具合に増えっぱなしでは、あのかた、舌を噛んでばかりよ」
 “べべんつばい”の比じゃないわ、と、愉快そうに笑う奥さまを、私はちらりと見た。
「カルサレス卿は、会議のあともどちらかへ回られるご予定とか …… 湖沼地帯あたりへ」
 ああ、とうなずき、奥さまは急に馬の足はこびなどを気にしている。
「会議に出席されたヴールユ伯に、ご招待いただいたそうだから」
 ひょいと肩をすくめ、奥さまは首を振った。
「夫からの手紙にありましたけど、湖沼地帯のほうで珍しい鉱脈かなにかが出たとかで、ま、つまらない視察ですわ」
「そうですか」
 馬は浜辺道にさしかかった。浜のぐるりをふち取るように、木を組んで道がしつらえられている。
 そのあたりで砂浜は尽き、やぶの繁った防砂林が始まる。浜辺道のところどころでは、やぶがすぐ近くまで迫っていた。
 奥さまの黒鹿毛が先になり、浜辺道の木組みへひらりとあがった。私のぶち馬も釣られてぴょこんと前脚をかける。
 指示が後手になり、迷った馬体が大きくかしいで、私はバランスを失った。
「あ」
 鞍上で振り上げられた拍子に、押し込んでいた髪が襟元からこぼれた。
「膝を使って …… レディ・カタシア!」
 杉板にぼこぼこと軽快な音を響かせ、ぶちは無事段差を乗り越えた。
「はい。だいじょうぶですわ」
 上ずった声で言いながら、私が姿勢を立て直したとき、風がほどけた髪をすくいあげ、ぴしゃりとあおった。
「あっ」
 私は片手で目を押さえた。
「痛くなさった?」
 奥さまがすばやく馬を寄せてくる。
「い、いえ。平気ですわ。どう、どう」
 私は目を覆ったまま、片手で手綱を引いたが、乗り手が身をすくませた様子に不安になったのか、馬がどかどかと足踏みを始めている。
「あらあら、よーしよし」
 身を乗り出した奥さまが私の手綱をつかんだ。
「よーしよーし、いい子ね」
 異変に気づいたのか、お仕着せを着た馬丁がひとり、砂浜をかけてきた。
「レディ・カタシア、両手で手綱を」
 奥さまはくつわをつかまえようと、手綱をたぐっている。
「はい」
 返事をしつつも、私はなかなか上体を安定させられず、馬丁の助けを借りて、ぶちはようやく落ち着いた。
「ひどく打たれましたの?」
「いいえ、ちょっと涙が出ただけですわ」
 私は両手で手綱にしがみつき、下を向いて目を隠した。
 奥さまが体を低くして、首から上をすっぽりと覆ったヴェールの中を透かし見る。
「まあ、赤くなって」
「あの、大したことありませんから」
 私は涙をふりきろうと、せわしなく目をしばたたかせた。
「ダメダメ。目を閉じてらして。何かで冷やしましょう。お前、水筒を持っていて?」
 奥さまが馬丁に顔を向ける。
「いいえ、マダム」
 馬丁は首を振り、貴族たちがかたまっているほうを目で示した。
「荷物は皆さんがたのおられるほうにまとめてありまして」
「姫君をお願いね」
 馬丁にひとつうなずくと、奥さまは華麗な跳躍で砂浜に降り、みるみるうちに浜を駈けくだっていった。

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