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赤毛姫の憂鬱(2)

「ああ、気持ちがいい」
 “曲がれ”の指示を出し、ゆっくりと円を描いて歩かせながら、ベレンツバイの奥さまは愛馬の首を叩いた。
「ぽくぽく歩くより、駈けさせるのが好きですわ。ふわふわして、なんだか飛ぶようじゃありません?」
「そうですわね」
 私はひきつった声でそれだけ言った。
 大きな歩幅で馬を走らせる駈歩には、まさに飛ぶように鞍から放り出される感じが常にある。馬の背に必死ではりついていたせいで、今夜も体じゅうがみしみし痛いだろう。
「駈歩は怖いとおっしゃるかたも多いけど」
 そう言って、奥さまは砂浜のはずれを振り返った。
 貴族の一団は、横乗りをした女性と同様、男性も馬丁に端綱(はづな)をあずけ、のんびりと引かせている。
「うちのほうでは、あまり馬を走らせませんから」
 何となく仲間をかばう気持ちで私は言った。南の海をのぞむ、ここユワク南端の海岸地方の地形は全般にごつごつとしていて、道路を整備するだけでせいいっぱい、遊興としての早駈けに適した、ひろびろとした場所はそうないのだ。
 唯一、海岸だけは確かに広いが、どこか粗野で不衛生な場所という感じがあり、こうして奥さまに引っぱり出されるようになって、初めて砂浜へやってきたという者も多い。
「ついて来るななんて、クギを刺さなくてもよかったようですわね」
 私は不自由な鞍の上でぎくしゃくと振り返った。ベレンツバイの奥さまは、静かにこちらを見つめている。
「レディ・カタシア。なにか私に内緒のお話がおあり。そうでしょう?」
「いいえ、そんな」
「あら。では私のほうから」
 奥さまはひと呼吸おいてから、にっこりと笑った。
「浜は風がありますから、お髪(ぐし)は結うか包むかして、まとめておかれたほうがよろしいわ。目を叩いたりしては危ないし」
「は、はい」
 言っているそばから、コイフ(※頭巾のような被り物)の下に長く垂らした髪を、風が派手にまきあげている。やわらかい毛先がムチのようにしなって、埃よけのヴェールを打った。
 私はなんとか片手で髪をまとめ、上衣の襟元に押し込んだ。
「風にもつれたら、傷んでしまいますしね。赤毛のかたは、毛質が繊細でらっしゃるから」
「あの、赤毛といっても、私のは少し茶が強いのですわ」
「そうかしら?」
 奥さまはわずかに首をかしげる。
「いずれにしても、ツヤがあって、とても綺麗なお髪だわ」
「お褒めいただきまして。ベレンツバイの奥さま」
「ハーミナでよろしいんですのよ」
 さあどうぞといううなずきに合わせて私もうなずき、
「レディ・ハーミナ」
 行儀よく言い直したが、奥さまはうーんと眉を寄せた。
「ハーミナはただの愛称ですの。レディをつけるとおかしな具合ですわ。呼び捨てでかまいませんのよ」
「でも ……
「ね、お友だちとして」
 私はうつむいた。自分より年上で、子供もあり、何より生まれながらの貴婦人然としたこの堂々たる女性を呼び捨てにするのは、どうもはばかられる。例えばこのひとの主君すじにあたる誰かと、私が結婚することにでもなれば、それはそう不自然な呼び方でもなくなるのだろうけれど。
「“ベレンツバイの奥さま”に、“ダシート・イ・エジマの姫”じゃあ、あんまり長くて」
 奥さまは、いたずらっぽい抑揚で言った。
 威厳にけおされている私は、氏族名に尊称をつけた、正式の呼称で彼女に呼びかけている。すると客分の奥さまからも氏族名で返すのが礼儀になるのだが、カルサレス一行が私をうっかり“エジマの姫”と呼ぶたび、父や叔父たちが、いちいち揚げ足をとるように訂正するのだ。
「それは便宜上の通り名のようなものでござって」
「そもそも現在のダシート宗家(そうけ)は、我ら海岸の一族をその源流としており」
 などなど。
 海賊から足を洗い、内陸への進出をはじめたころの古ダシートたちからすれば、私たちは切り捨てていった分家ということになるはずだったが、ものは言いようだろう。
 私が黙っていると、
「お互い、困った名前ですわね」
 深追いしないという笑顔で奥さまは話を終わらせたが、
「すみません」
 間がもたず、私はしょんぼりと謝った。
「普段からエジマで通しているので、本当は構わないはずなのですけど」
 ぶち馬がさくさくと砂を踏み、勝手に歩き出す。私は揺られていくままにさせた。
 奥さまが流れるような手綱さばきで私に並んだ。
「エジマと言っただけでも、こちらのお家がダシートの古い流れを汲む名家だということは、広く世間に知られておりますものね」
「あのう、ベレン ……
 口ごもった一瞬のあいだに、ハーミナ、レディ・ハーミナ、ベレンツバイの …… と、いろいろな呼称が頭を巡る。とにかく本題に入らねばならないので、
―― 奥さま」
 無難なところで手を打った。
「あのう、もしやご存知でしょうか、あの」
 姿勢よく、奥さまはくすりと笑った。
「ごめんなさいね。なんだか意地悪をしているみたい。私から申し上げようかしら。お聞きになりたいのは、カルサレス卿のお戻りはいつか、ということでは?」

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