男は黙って
  
(5)
「ぎっちゃん」
 劇場の狭いメイク室で着替えていたら、ドレッドヘアにパンイチ姿の柘植和樹が顔をのぞかせた。
 僕らはお笑い専門の小屋でコーナーを持たせてもらい、「つげ塗装」と合同でネタをやることが多くなっていた。僕ら「カラコロ」が上っ面の知識でやっているなんちゃって不良コントを、陰からホンモノである「つげ」の二人が見てジリジリするというシチュエーションだ。シリーズ化して結構ハマっている。
「客席にみるいんが来てたよ」
「誰?」
「あおみどろのみるいん」
 何度も聞き返して、それが「あおみどろ」のボケの名前だと教えられ、芸名でも冗談でもハーフでもなく、漢字で「海松院」と書くのだと知った頃には、もう客席の追い出しは終わっていた。
 僕は劇場ロビーをウロウロと探し、誰にも顔を差されることなく正面エントランスを抜け、ビルをぐるっと回って裏の駐車場に出た。
 天才は駐車場のはずれで、スニーカーのつま先をぐりぐりとフェンスに突っ込んでいた。
 通用口の方から誰かへの歓声があがった。天才はふと顔をあげ、僕と目が合うとニヤリと笑った。
「どうしょうと思たんやけど、一応お祝い言うとくかなって」
「うん」
 長髪のヅラをはずした天才は、一見すっかりただのあんちゃんに戻っていた。
 でも扮装がはぎ取られた分、むきだしの凄みがギラギラと放射されている。なんというか、オーラを感じるんだ。ファンか僕は。確かに「あおみどろ」の舞台は関西系の常設小屋で客席から何度も見たんだけれども。
 僕は必死で話題を探した。寿司ネタのミル貝は「海松貝」と書く。とはさっき漢字オタクの柘植和樹から教わったんだけどそんなことじゃなくて。
「これから皆でメシ行くけど、一緒にどう」
「いや、ええわ。新幹線の時間あるから」
 大阪に帰るんだ。僕は何も言えずにただうなずいた。
「『煉獄』んときのお前らの間(ま)、よかったで」
 僕はぐいっと口元を引き締めた。あのときのことを言われると、もう肺がポップコーンみたいにパンパンになる。顔が笑ってしまうのだ。
 カットされた「あおみどろ」のことを思ったら、満面の笑みはマズいだろう。「ありがとう」さえ何気ない口調では言えない気がして、僕はなんとか頭だけ下げた。
「お前ら、収録順離れてるやろ。『つげ塗装』のネタがあった後、客はいっぺん休憩はさんでる。あれくらいたっぷり待たんと、客には『あ、さっきとおんなじや』いう意識がパッと浮かんでこんかったやろな」
「あ、そう、なん」
 僕の相づちはカン高く、最高に間抜けなトーンだった。
「そんなこと、全然考えてなかった ……
 天才は静かな視線を僕に向けた。
「あれで高速にツッコんどったら、ちょっとスベってたかもしれん」
「うわ、あ」
 膝がカクンと抜けた。「ちょっとスベる」で済めばいい方だ。誕生日ケーキのロウソクで彩られた僕の栄光の舞台は、狭い足場以外すべて切り立った断崖だった。僕は今さらその高さにクラクラした。
「安全策取って、『つげ』の存在を無視してもよかったのかなあ」
 僕が言うと、天才は汚いものから身をかわすようにのけぞってみせた。
「ネタがある程度進めば、客は気づいてしまうわ。その方が何倍も不細工や」
 いい判断だったと、コイツが言うなら確かなんだろう。
 この無条件の信頼には自分でも笑ってしまう。今コイツが「願いが叶う魔法の壷を買うのに金が足りないから三万貸してくれ」と言ったとして、何も言わずにATMに走る自信が僕にはあった。
 天才はフェンスに手をかけ、指でコツコツとリズムを取っている。
「お前の得手は多分、瞬発力とは違う。じーっと黙って考えて、浮かんだものをじっくり捏ね上げて作るのがお前はうまい。ちゃうかな」
「ああ、うん」
 僕はこくこくとうなずいた。
「すごいなお前」
 ネタを見ただけで、そいつの得手不得手まで分かってしまうんだ。本当にすごいヤツだ。「VCR」の南田に嫉妬されるだけのことはある。南田には、自分より才能のあるヤツを敵視する分かりやすい習性があった。
 ちなみに僕のことは馴れ馴れしく飲みに誘ってくる。心外だ。合皮パンツ野郎め。「煉獄」でも「VCR」はカットだったってのに、「オレらは前説やらせてもらってる他の局でテレビデビューの予定だから」なんて余裕コイてやがった。
 何の話だっけ。
 天才は腕時計をちょっと見て、そのままどこか街路樹の彼方を見やった。
「オレら、大阪のラジオで番組持たせてもらえることになってん」
「へえ」
 よかったじゃないか。僕は多分芸人になって以来初めて、同世代のヤツの成功に一片の黒い感情も覚えなかった。
「しばらくは新幹線で行ったり来たりや」
 嬉しさで息が詰まるのが分かった。東京を引き払うわけじゃなかったんだ。
 会社に長距離の交通費を出させるなんて、まさにそれは売れていく芸人がたどる最初の一歩だ。僕は相撲ファンみたいに天才の背中をパンパン叩きたくなった。ファン丸出しなので少し躊躇する。とにかく顔がゆるんでしょうがない。
「よかったなあ。頑張れよ」
「構成作家が足りひんねんけど、お前やってみる気ないか」
 あっけに取られて言葉が出なかった。僕はなんとかフルフルと首だけ振った。三万なら貸せるけど、それはちょっと。
 天才は返事を待つようにあさっての方を見ていて、僕の仕草に気づいていない。あえて見ないようにしているのだろうか。
「せっかくだけど、僕は勝史と」
「うん。そやったな」
 天才が柔らかくうなずくのを、僕は不思議な気持ちで見つめていた。
「じーっと黙って、捏ね上げる、か」
 確かに得意だし、大好きだ。ノートに書き出したネタを整理して、流れを作り、きっちり固めた展開に突然ひねりを加えたりして、明日これを勝史にどう話してやろうかなんて考えていると、時間を忘れる。
「でも僕がやりたい笑いは、その先なんだ」
 ステージいっぱいに跳ね回る「あおみどろ」の舞台が目に浮かんだ。終わりかけのパラパラマンガのようなコマ落としで、一瞬一瞬が網膜に焼き付いている。油の反射がキラキラとまぶしい。あのテッカテカの舞台でしかできないことが、確かにあった。
 得意分野じゃなくても、僕はあんな風にやりたいんだ。一瞬の光芒を追いかける。押しつぶされて黙り込んでしまうようなプレッシャーの中にいるとき、僕には色んなものがめちゃくちゃクリアに見えている。あの場所で、いつか思い切り声を出してやりたい。たとえうめき声ひとつでも。
 よく覚えていないけどそんなようなことを、夢中でしゃべった。
「ヘタの横好きが通用する世界ちゃうわ」
 辛辣なことを言いながら、天才はものすごく嬉しそうに笑っていた。