HOME
シルバースプーンレイク(1)

「ううん、どうもダメだわねえ」
 手にした便箋をにらみつつ、バーナビー卿夫人はため息をついた。
 クセのある女文字は細かく入り組んでいて、一部が読み取れない。さっきから読書用眼鏡を近づけたり離したり、窓へ透かしたり照らしたりとさかんに奮闘していたのだがとうとう音をあげ、眼鏡をかたわらのクッションに投げた。
「レオニー! レオニー!」
 耳をすましては声をかけ、ようやく小さな居間の戸口にぶすっとした顔の女が現れた。肘まで袖をまくって、粉だらけの手をしている。
「あら、粉をこねていたの。悪かったね。ちょっとつづりを読んでちょうだい。つ、づ、り」
 レオニーはまたかといった顔で女主人にずかずかと近づき、指さされた箇所をアルファベットで一字一字音読した。
「ありがとうよ、これで意味が通った。おさがり、メルシー」
「なあ、お前」
 バーナビー卿は自分の読書鏡をはずし、トロント・ニュースの日曜版を置いた。
「やっぱり、募集広告だけでメイドを雇ったりするんじゃなかったなあ。フランス語しか話せないメイドを雇ってしまうなんて」
 バーナビー卿夫人も、やれやれと頭を振る。
「てっきり、フランス語“も”話せる、だと思ってしまったのよねえ。安いお給金なのに、なんて素晴らしいと感激したものよ」
「アルファベットすらフランス語で言われたんじゃ、手紙を読んでもらうのだってひと苦労だ」
 大きな抑揚をつけて卿は言ったが、本気で憤慨しているのではなく、これは夫婦の気に入りの軽口なのだった。
「こういう手配をデレクに任せっきりな私たちも悪いわねえ。年寄りのガートルードの代わりを急いで探したから、うっかり面接もなしに雇ってしまったと、あの子もすまながっていたわ」
「誰の助けもない土地だ、多少のうっかりは仕方ないさ」
「私たちもしっかりしないとねえ」
「そうやってつづりを思い浮かべる訓練というのは、ずいぶん頭の働きによいそうだよ」
「だといいけれど。新聞のクロスワードくらいならご助力いたしましょ」
「英語で言ってもらって構わんよ」
 軽口の句読点として、夫人はクッションをぱふんと叩いた。
「で、英国奥さん情報局からは、面白いニュースがあったかね」
 夫人はそうそう、と便箋を上げた。
「モウブリー氏のお嬢さんが、婚約なさったそうよ」
「ほう」
 バーナビー卿はしばらくぽかんとして記憶をたどっていたが、やがてかたわらのロンドン・タイムズをガサガサとめくった。
「それらしい社交欄には気がつかなかったがね」
「週遅れだから、まだ載らないのかしら。この手紙がカナダに着くのと、どちらが早いの?」
 夫人はひとりで問いかけながら便箋を入れ替えた。
「あ、こっちに日付があった。もうひと月も前のことですってよ」
「新聞発表はせんかったのだなあ」
「そりゃあ、あちらはあのこと以来社交界からは引いてらっしゃるし、お相手も普通の勤め人だそうですからね。かわいそうに」
「利発そうなよい子だったが」
「よい子ってあなた、クレアさんはもう二十一歳ですよ」
「そうか、もうそんなになるか」
 バーナビー卿は、彼らの小さな居間から好ましげに外をながめた。こんもりした灰色の森がそこここにうずくまり、スラリとしたスプーンのような細長い湖が白く凍りついている。
 いつも夫婦で話すことだが、小さな湖が点在する、トロント郊外のこの小さな町は、卿がかつて邸宅を持っていたイングランド湖水地方の風景に、少しだけ似ていた。
HOME