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「 …… ありがとう、信じてくれて」
　少しぽかんとしながらピーターがつぶやいて、そのままどれくらいそこに立っていたのか分からない。気が付くと、寒風に混じって細かい雪がちらつきはじめていた。
「降ってきた」
　暗い空を見上げたピーターの顔にも、雪の粒がぴしゃぴしゃと当たった。
「どこかへ入ろう」
　私の背中を押しながら、ピーターは小走りに石畳を進んだ。道の向こうの、パン屋と一緒になったようなティールームを目指している。
　たどりつくと、それはどこの街にでもあるようなチェーン店で、明るく押しつけがましい内装と、他人のテーブルは見えないものとして無視しつつおしゃべりに熱中している人々が見えた。入り口の石段を登って、ピーターがガラスの入った扉を押し開けた。
「ピーター、おかしな意味に取らないでほしいんだけど」
　私を通そうと、ピーターが振り返っている。
「私の部屋に来ない？」
　やっぱりどう聞いても、そういう意味にしか聞こえない。
　私は店内を目で示した。
「ここは …… にぎやかすぎる」
　彼と何かを話すのなら、あのなつかしい調理場のような、穏やかでくつろげて、月あかりがほのぼのと見守るような場所がいい。そういう意味に、取ってくれるだろうか。今夜は月は見えないけれど。
　開いたままのドアからお客が出て来て私たちは押し出され、レンガ壁のせまい軒先までじりじりとあとずさった。
　キスのできる距離。私はあれから大して背は伸びなかったけれど、かかとのある靴をはくようになっていた。
「 ――― いいの？」
「だから、ヘンな意味じゃないったら」
　私が道なりに歩き出すと、慌てて彼もついてくる。
「ヘンな意味に取る人だっている。近所の目とか」
「大丈夫よ。私が先に入って、裏口をあけておくから …… いいえ、裏口はリースさんに出くわすかも。一階の家主さんなの。ええと」
　目にあたる雪粒を避けながら、頭の中で下宿の周りをぐるぐる周回していると、
「だったら僕の部屋に来る？　いやこれはもっとヘンだ」
　ピーターの靴音がバラバラッと乱れる。
「どこに住んでるの？」
「まだホテル住まいだ。安ホテルで …… まったく問題外。ごめん」
　慌てぶりからホテルの格式を察するに、部屋まで彼と一緒に入るにしても別々に入るにしても、私はそういう女に見られてしまうのだろう。
「お金がないの？」
　本当に心配になってたずねたが、男性の懐事情をそうあけすけに聞くべきじゃなかった。懐かしの「社交の手引き」未婚女性編を引くまでもなく。
「大きなホテルは、知り合いに会いそうで厄介だからね」
　持ち金うんぬんからは論旨をずらし、ピーターは男のプライドと私の失言の両方を救った。
　ほっとした私は場末の安ホテルの暗い一室、まだ荷物も解かれていない小さな部屋を思った。彼と一緒に長い時間を旅してきた、少し見慣れないさまざまなものたち。異国のにおい。
「六年、何をしてたの？」
　何を考えながら、私にすべて打ち明ける日を待っていたのだろう。どうにも言い回しがロマンチックになるけど。
「あちこち行ったよ。さいしょはアルゼンチンへ行って、チリに入って、メキシコ、アメリカ …… 」
「そんなに？」
　私は目を丸くした。ズラリと並べられたって、見当もつかない。
「足取りがたどりにくくなるかと思って。あとはヨーロッパに戻って、イタリアでイギリス人会計士の助手みたいなことをやってた。こっちは全くきれいな商売として」
「あなた、すごく変わったわ」
　秘書のフリしてた頃とは違って、言うことがすごく犯罪者っぽい。とは言わなかったのに、ピーターはちょっと傷ついたように目をしばたたかせた。
「うん。“クレアさま”が、こんな大人の女性になったわけだもの。年を取ったよ」
「そうじゃなくて、何て言うか …… においが変わった」
「自分じゃ分からないけど」
「外国のにおいみたい」
「たばこかな。イタリアのたばこは、こっちとずいぶん味が違ったから」
　雪の粒が吹きつけて、彼の唇の上で溶けた。水滴は、イタリアたばこの味になったのだろうか。
　空想ではない本物のキスが、たとえ期待したほど甘くなくても、私は“うへえ”なんて言わないつもりだ。

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