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プノールンプルンのネズミ(2)

 一方こちらは本陣をぐるりと囲む隊列の一画。
 途切れていた弓琴がまた流れ始め、兵士たちは忙しく食事を再開していた。
「で、若さまはさっき、何にご機嫌を損ねられたんだ」
「楽師だとよ」
「北ユワクの田舎唄がお気に召さんかったのかな」
「まあ、やかましいからなあ」
 うなずき合い、男たちの興味は目の前の皿に戻ったが、中にひとり、落ち着きなく伸び上がっては本陣を窺う者がいた。
「あれ、若さまがうっぷしてしまわれた。お腹でも痛くされたんだろうか」
 大柄な男はとっくに食べ終わった皿を抱きしめながら、ひとりさかんに呟いている。
「まさかお食事に毒でも……ああ、違った。よかった」
 幕屋ひとつを背にした総大将の姿は、吹きさらしの陣営のどこからでも見える。小卓に倒れこんでいたカルサレス卿が今起き直り、特大の肉の塊にかぶりついたところだった。
「うまそうにお召し上がりだ。よかった」
「おい」
「相変わらずお行儀が悪い。よかった」
「おい、トッター」
 呼ばれて男は振り返り、上機嫌でうなずいた。相手も同じ思いのはずと、ひとり言をそのまま渡す。
「見てて気持ちのいい食いっぷりなんだよなあ。お行儀は悪いが」
 知らねえよ、と返した兵士は、トッターをまじまじと見つめた。
「あれか。お前も隠れキエト者か」
 そうだぜ、と別の場所から合いの手がかかった。
「こいつ、こないだ直接お言葉をいただいたもんでよ。それ以来すっかり」
「えへへ。隠れてるつもりもねえけどな」
 トッターはにやけながら、胴丸の腹にごつい手を当てた。金や手紙や大切なものと一緒に、小さな木版聖画が入れてある。黒髪の聖キエトだ。
『あ、そこのお前。そんな乗り方じゃ疲れるよ。馬も人も』
 トッターの記憶の中のカルサレス卿も、今や聖人さながらキラキラの光背を背負っている。
「俺、軍装馬術は付け焼き刃でさあ。なんでも俺の鞍ヒザは、馬が一番嫌がる間合いで入っちまってるんだと」
 トッターは匙を横ざまに構えて前傾になった。皿を小脇にしてホイホイと上体を揺すると、速駈けの身振りだ。
 騎兵の行軍では、膝で馬体をしっかりと挟みつけ、馬の足運びに合わせて重心を送り込む「鞍ヒザ」という動きが重要になる。行程が長くなり、装備が重くなるほど、乗り手の技量による負担軽減が行軍に大きな差を生む。
「若さまのお指図で、カルサレスの衆にべったりついてもらってさあ。半日コツを叩き込まれた。驚くほど楽になって……いや、半日でコツを飲み込んだ俺がすごいって話な」
 カルサレス陣営では歩兵から寝返った者が多く、どんどん騎兵に登用されている。増え続けるにわか騎士に馬の扱いを教えるのは、カルサレス卿のもともとの領民、挙兵のためにシバムを越えてそのまま戦場に居残っている平原の民だ。ついでに「若さま」呼ばわりも広まっている。
「お優しい若さまからしたら、よっぽどお前の馬が気の毒だったんだろうよ」
 すっかり心酔したトッターのような敬慕の「若さま」とは違い、大部分の者はまだ、諸々の状況をひっくるめた冗談口として使う「若さま」ではある。トッターは一向に構わず、熱心に空鞍を使った。
「ギャロップが安定したら俺、伝令に志願するんだ」
「どうせならあっちでやって、馬に採点してもらえ」
 少し離れた場所に小班の乗馬がまとめられ、ひとりが番に残っている。
「馬番も久々のご馳走を待ってんだ。替わってやりな」
「おう」
 トッターは速駈けごっこのまま立ち去った。入れ違った馬番が首をひねりながらやってくる。
「なんだ、ありゃ」
「伝令志願だと」
「はは。もうちょっとでかいことを言えよ。俺たち同様ヒラ歩兵だったネグトレンが、今じゃ『軍師どの』だぜ」
 男はどっかと腰を下ろした。ちょこんと置かれた革帽を取り除けると、シチューの皿が隠してある。
「ネグトレンの悪知恵は別格さあ。俺ら善人にはどだい無理な話」
「……善人が、同輩のシチューを盗むか」
 フタ代わりの革帽を握りしめる。皿はほぼ、煮汁だけになっていた。
「ボイとスーフ! ボイとスーフ!」
 小班ゆえ、目撃証言はすぐに固まった。空腹の男は「教会の高き御堂にかけて」下手人ボイとスーフに真実を迫り、革帽でくるんだ拳に物を言わせて、割り当ての肉を取り戻した。
「まったく。塔の独房へ運ぶお食事に手をつけてたのも、大概お前らだったな」
「若さまはお優しいから」
「牢番廻りのときにご恩を売っときゃ、俺らだってもちょっと出世してたんだよ。軍師とまでいかずとも」
「だから、あいつの悪知恵は別格なんだって」
「ネグトレン。あいつがそんなに偉いもんかね」
 ひとりが首をかしげる。別のひとりがコンと皿を打ち、身を乗り出した。
「三人の女と同時にねんごろになって、三人それぞれに男をあてがって手を切るなんて芸当、お前できるか」
「そりゃまた、至れり尽くせりだな」
「流れ者の傭兵ならまだしも、砦詰めってのは決まりきった顔ぶれだ。なのに奴ァ好き放題やって揉め事のひとつも起こさねえのよ。女の一番言われたい言葉が分かるっつうのかね。ほれ……何てった」
「二枚舌は耳に優しい」
「あれは悪魔から知恵を盗んできたって、クエイサさまはおっしゃるそうだ」
「ああ、元気かなあ。ムッカちゃん」
 尼僧長が陰でそう呼ばれているわけではなく、司祭役の名が出て婚礼の思い出がよみがえったのだ。胸のお守りを探っている兵士は、どれも女房持ちである。
「ちぇ……。女の話なんかするなよ」
 せめて食欲を満たそうと、男たちは煮込みをかき込んだ。なぐさめるように、弓琴が低く歌った。
「ツィー、ツァラー」
「よう、あの楽師って若さまのお抱えだっけ? 赤毛の」
 すらりとしたとんがり帽子の男は上背があり、隊列のどこにいても目立つ。話のついでに目で追えば、髪はつやのない鉄色だ。
「ああ、ちっちゃくて可愛いよな。いくつも太鼓ぶら下げてよ」
 ゆったりと歩く弓琴弾きの後ろを、ちょこちょことついて回る小柄な女がいるはずだった。穏やかな長想曲にあまり出番のない打楽器奏者は、すかぽん、てぽんと節締めの一打を入れるだけになっている。人垣に埋もれて見えないが、楽師帽にたくし込んだ髪束は、一度見たら忘れない燃えるような緋色だった。
「そりゃお抱えだろう。あれだけの腕だ」
「そうじゃなくて……、あっちのほう。な」
 ああ、と応じてがぶりと水をあおる。
「まあ、お抱えなんだろうよ。たまに幕屋に呼ばれてる」
「くそう、可愛いもんなあ」
「いっそ弓琴弾きのほうでもいいなあ。細身は好みだし」
「……」
 注視を受けて、男はぐるりと見渡した。厳しい行軍に、どの顔もやせ気味だ。
「心配ない。俺は面食いだ」
 ぶぶう、と礼節にのっとった応答が返り、こっちだってそうだ、と小班は賑やかな冗談口に沸いた。
「楽師君のほうでも相手にせんわ」
「フラれちまえ」
「ああいう美人は気位が高いんだ」
「寄るな下郎ってな」
 いや冗談でなく、とひとりが言って、匙で隊列の向こうを指した。
「あいつ、俺らに比べたらずっとご活躍だぜ。こないだ待ち伏せを捕まえたろ。耳で」
 水場へ向けての行軍途中、楽師の鋭い耳が聞きつけたのは、暗殺者が短弓を巻き上げるかすかな音だった。方角から距離まで断言してみせ、討伐隊が放たれると大当たり、岩陰からほこりまみれの弓兵がまろび出た。
「飲んで騒げって曲もやれば、祭礼音楽だってごまかしがない。宮廷作法も心得てる。そのうえ哨戒の役にも立とうってんだ。楽師に階級があるとすりゃ、軍師ふぜいよりもっと上、騎士長クラスだな」
「騎士長……」
「身分違いの恋だ、諦めろ」
 未だ先の見えない我が身を省みつつ、男たちはため息をついた。
「王都でだって一流どころで通るだろうなあ」
「こんな荒野で何してんだ」
「戦場にゃ、都会での実入りをしのぐような稼ぎ口があるってことさ」
「お抱えだもんな」
「手柄も立てたし、高給だろうな」
「おいらも楽器に鞍替えするか……なあ、宮廷作法って何だ」
「さっきのメドレー奏さ。上席の会話の成り行きに合わせて、色々に転調する」
「高等技術だぜ。騎士長楽師ならでは」
「うん……」
 水を含ませた堅焼きパンで器をぬぐいながら、楽師志望の男はじっと考え込んでいる。
「てことはさ。あいつ、若さまたちの話の内容を理解したんだろうか、あの距離から?」
「そりゃあ」
 ぽかんと言いよどんだ男たちのあいだを、北ユワク特有の乾いた風が通った。
「耳がいいんだろ。騎士長楽師だもの」
「キュキュキュ、ツィン」
 含み笑うように、遠くで弓が跳ねた。
HOME   現在ここまで。ハンパ公開申し訳ありません!