男は黙って
  
(1)
 小柄な男は闘志をむきだしにして、低く身構えた。
「これ以上オレにつきまとうな。ていうか死ね!」
 軽い助走から踏み切る。ふわりと滞空したあと、美しい両足蹴りが決まった。少ない助走エネルギーが、無駄なくドロップキックに変換されている。
 相手は放物線を描かずに吹っ飛んだ。打点が高いので上から床に叩きつけられる感じだ。
 僕は直線横移動する長い髪を目で追った。お水系のタイトなワンピースはライムグリーンの残像だけを残し、つるつるの床をスライディングしていく。びびび、と痛そうな擦過音が響いた。手でブレーキをかけたのか、もしかしたら顔面で着地したのかもしれない。壁に激突する前に、滑走は止まった。
「イ、イタイよ、ケンジ〜」
 カン高い泣き声を上げながら、幽鬼のような姿が半身を起こした。顔じゅうに張り付く長い髪。ひと昔まえの古くさいタイトミニが派手にずり上がり、ストッキングも何も丸出しだ。僕は思わずぷっと吹き出してから舌打ちした。
「アイツら何、マジ?」
 僕の背後で南田が言った。飲みかけの缶に口を付けたままなので、「フコー」と響く鼻息がダースベイダーみたいだ。
「らしいよ」
「股間丸出しだっつの。フコー」
 のろのろとスカートを直す細身の体に向かい、小柄な男はファイティングポーズを崩さない。回り込んだ数歩の助走から、またも素早い跳び蹴りが炸裂した。今度はもといた場所へ向けて。
「よく飛ぶなあ」
 ウィンブルドンの観客みたいに、僕と南田はライムグリーンの返球を追った。
 かなりの飛距離だ。収録ステージの大きさを考えると、彼らの動線は今、完全に演者スペースからはみ出している。しかし女装のボケ役はいわゆる天才肌で、本番で周りが見えなくなるということがない。勢いだけのように見えてなかなかの技巧派なのだ。本番の舞台では、キッチリ飛距離を合わせてくるのだろう。
「ったく。周りの迷惑も考えろよ。フコッ」
「いんじゃねえの、充分広いんだし」
 僕が言うと、南田は「まあな」という顔になり、スコーンと広い総合控え室を見渡した。
 僕ら若手芸人に、個室の楽屋など与えられない。しかしさすが全国ネットのキー局は、大部屋も豪勢だ。会議用長テーブルで四角く囲まれた休憩スペースには、保温ポット入りのコーヒーやお茶、ジュースのペットボトルなんかも用意されている。
 だがそこを大人しく「休憩」に使っているのは、すでに出番を終え、ぐったりと討ち死にしている者ばかりだった。収録順の遅い芸人たちは皆、廊下をうろついては不安げにたまったり、イヤフォンをつけて別の世界でストレッチをしたりと落ち着きがない。壁に向かって最終のネタ繰りにかかっている者もいるが軽く段取りを確認し合う程度で、ここまでホンイキのテンションでネタをさらっているのは、彼ら「あおみどろ」の二人だけだった。
 あおみどろの「ちっちゃい方」が、また細かいステップで助走に入る。
「お前さっきと言うてること違うや、ろ!」
 「ろ」で、なにわのスライディング職人は再びキレイに射出された。まっすぐ突き刺さる弾道は、全く受け身を感じさせない。歌舞伎の連獅子のように髪をぶん回しては立ち上がり、客席が「キモイー」と沸く連続の見せ場だ。畳み掛けるやり取りもピタリピタリとハマっていく。いい仕上がりだ。
「控え室でホンイキって、あいつら緊張してんのかな。フココッ」
 南田が缶の中で含み笑った。
「ライバル脱落、フコ〜」
 僕はジロリと睨みつけてやったが、南田はそのままゆったりと歩み去った。イケメンコンビ「VCR」のトレードマーク、黒い革パンツがぎゅうぎゅう鳴りながら遠ざかる。
 南田だって相当緊張しているはずだ。控え室にはこれでもかと各種ドリンクが山積みされてるってのに、わざわざ自販機まで行って缶コーヒーを買っている。じっとしていられないと素直に言やいいのに。賭けてもいいが、ずっと口元に構えたままの缶の中に、コーヒーは多分一滴も残っていない。
 僕は開けっ放しの扉から廊下に出た。革パンツの後ろ姿を探す。
 南田は悠々と壁にもたれていた。相変わらず、「今ちょっと何かに気を取られてる」という風を気取って缶を口元にキープしてる。ぐいっと缶を傾けろ。そして「あ、なかった」という顔をするんだ。そこへ僕が出て行って、フコッと鼻で笑ってやる。
「いいから。あんな奴ほっとけ」
 僕はかかとでくるりと方向転換し、廊下を反対向きに進んだ。
 他人のアラを見つけて腹の中でツッコみ始めるのは、アガッている時の僕のパターンだ。ツッコミの職業病なんだと思っていたら、僕は追い込まれたときほどツッコミが腹の中にしまい込まれ、言葉にならないってことに最近気がついた。ネタ中に、ひとりでツッコんでひとりでスッキリしてどうしようというんだ。
 僕ら「カラッケツコロッケ」の出番はまだ先だ。誰がウケて誰がスベったか、スタンバイフロアのモニターでじっくりチェックするという手もあったが、僕のアラ探しの癖が増幅される危険がある。イコール緊張に拍車がかかるわけで、これは避けたい。ネタでも繰りながら、この長い廊下を端まで歩いてみるか、それとももっかい柔軟やっとくかと、僕がとりあえず屈伸を始めたとき。
「ぎっちゃん!」
 相方の勝史(かつし)の声がして、僕は振り返った。だが姿が見えない。
「かーつ! こっちこっち、廊下!」
 僕は数歩戻りながら呼びかけた。勝史は多分控え室の中で僕を探している。案の定、開けっ放しの固定扉から、泡を食った様子の勝史が飛び出てきた。
「ぎっちゃん! 大変だ!」
 ひょろりと細っこい勝史は、ダチョウ並の歩幅であっという間に距離を詰めた。
「何、何。つかお前どこ行ってた」
「スタンバイ、フロア」
 カーゴパンツの両膝をつかんでハアハアと息をつく。顔面蒼白の勝史は、テンパッてるときの常で、超ブサイクになっていた。
「やばいよ、ネタが、かぶってる、オチまで」
 ウソこけ。マジかよ。なわけあるか。違うだろ。
 僕は持てるツッコミワードを次々に放った。腹の中で。