放たれた矢が、いくら「自由だ」と叫んでも、方向は射手によって決められている。
買い物から戻った娘のシキが息を弾ませ、
「どうもついてきた人がいる」
ような気がする、と言う。しきりに話しかけられた感じもする。その感じとは何かと聞かれても、と、要領を得ない話に父親のアリンがジリジリしていると、青銅の門扉をガシャンと揺らして男が立った。
「ああ、いた …… 」
「何だあんた」
アリンは娘を後ろにかばって凄んだが、旅装の男は門扉の細い桟に一層かじりついた。
「どうか、お嬢さんに …… 怪しい者じゃない、話をさせて下さい …… 足が速くて」
息を切らせて言いながら、指一本分しかない隙間にも額をねじ込もうとする。
「港でお嬢さんを見かけて、それで …… 怪しい者じゃない」
「名乗って用件言うまでは大いに怪しいぜ」
「名はカラバドです。お嬢さんが髪にさしている石は、僕の矢じりなんです」
アリンは首だけ捻って娘の頭をのぞいた。
高い位置でまとめられた髪は、細い紐で全体がぐるぐる巻きにされている。どうしてずり落ちないのか不思議でしょうがない巻き終わりは固く結ぶか、小さな飾り玉をつけて押し込んでおくのが最近の流行だが、
「矢じりなんて勇ましいもんまで小間物扱いか。若い娘の流行りときたら」
「ううん、これ木場で拾ったの」
矢じりだなんて知らなかったと言って、娘は髪を探っている。
「木場ァ?」
「焚き付けをもらいに行ったでしょ。剥いた木の皮を集めてたらこれが刺さってた」
「それ、シデノキだったでしょう」
冬に猟をした森だ、と男が言って、扉を挟んだ内と外で話が通じてしまった。アリンはやれやれと掛け金をはずした。
「入ってくれ。門口で息の荒い男が呼ばわってるなんざ、近所のいい見世物だ」
門内の土間に来客用のベンチを据えた一画があり、アリンの女房のコーラも来て、額に門扉のすじ跡を付けた男の話を聞いた。
「お恥ずかしい話で狙いをはずしまして、刺さったその木が伐られてしまったんだと思います。猟場の森は間伐をするので」
「で、仲買が仕入れて大都へ運び」
「木場で皮を剥かれ、巡り巡って」
「うちの子の頭に刺さってるわけか」
「えらい流れ矢もあったもんだね」
両親揃って娘の頭をのぞきこむ。結い留めの下で、親指ほどの小さな石がチラチラと揺れた。紐と同じ、露を含んだようなベニイチゴ色で、淡い麦わら色の髪によく映えている。シキの弟のプエリョも親に倣ってじっと見つめ、乳呑み児なりの寸評を加えた。
カラバドという男は、一家に囲まれる形でひとりベンチに座らされていた。
「射た矢を見失うほど不名誉な事はないんです。休猟期は隠し通せたが、秋になって僕の支度に不備があると人に知れたら …… 」
「矢じりひとつに気苦労なこったなあ。在所はどこだい」
「エレ=ピラルの方です。こちらでは …… クロランドと呼ぶのかな」
「馬と川船で五日はかかる奥地だ。大都へ上るのは初めてかい」
カラバドは大きくうなずいた。
「港の雑踏でお嬢さんを見かけたときは、天の救いだと思いました。しばらく他行するからと連れをごまかしている間に見失いかけて、必死に追ったんですが、あの取引所のあたりは人出が凄くて …… 」
シキが密かに笑いをこらえた。呼び止めては人波に流され、呼び止めては流されしてなかなか用件を切り出せない田舎男が思い浮かび、アリンもニヤリとする。
「矢ってな消耗品とばっかり思ってたが」
「これは特別なんです。同じ石から打ち欠いたひと揃いになっていて」
へえ、とシキは指で石を探った。結い留めをくぐらせ、ひと巻きほどいて鼻先へ持ってくる。両親も顔を並べた。
平たい石だ。深い赤を割ってひと筋の白い縞が走る。全体に細かい銀の華が散り、光の加減でキラキラと表情が変わった。
「ふーん、確かにちょっとしたもんだが、別に色塗ったっていいだろ。しましまに」
「こんな細工は無理よ、お前さん。まるで螺鈿か焼付け釉みたい」
「なんでえ、本物見たこともねえくせして」
「あるわよ」
コーラが丸い肩をすくめてみせる。アリンは「けえっ」と喉音を立てた。
「お客のだろ。奥さまの下帯に金線細工のボタン縫い付けてたぐれえですっかり気位が高くなってら。元お針子ってなこれだから」
「お針子じゃないったら。衣装創案家」
「の助手、だろうがこの見栄坊め」
アリンが女房に向かって口が汚くなるときほど機嫌がいいと知らないカラバドは、オロオロと二人を見比べ、間合いを計ってエイヤと割り込んだ。
「吉祥の数、九本で揃いになった特別誂えなんです。並べると縞模様が繋がるようになっていて、どれひとつ欠けても」
「いや、分かったって。返してやるから」
頭越しに請け合ったアリンは、緩んだところを勝手にほどいていく。シキは「やめてよ」と父親の手を振り払ったが石を返すことに異存はないようで、くるくると続きを巻き取り始めた。
カラバドはほうっと肩の力を抜いた。
「あり、がとうございます …… あの」
幾らかお礼を、と懐を探るのをアリンが制し「都会で金使うなら女房子供に土産でも買ってやんな」と言うと、カラバドはそんなものはいないと答えた。
巻き始めがぱらりと抜けた。じゃあこれ、と紐つきのまま石を差し出し、シキは片手で崩れかかった髪を支えている。
「綺麗な紐までいただいちゃ悪い」
カラバドは短剣の留め金をはずしかけたが、横からアリンが首を伸ばした。
「おっと、こいつは父ちゃんが買ってやった上等な絹緒だろ。ブツンと切り落とすなんて恩知らずをすんじゃねえ。おや、馬鹿みてえに固結びがしてあんな。よし、いま目打ち探してきてやっから、結び目から丁寧にほぐすんだぜ、いいな」
早口でまくしたて、おい粗忽者、道具箱を出しやがれと女房の手首を掴み、そのまま奥に入ってしまった。
「ちょいと、何のつもりよ」
コーラは赤ん坊を入れた吊るし帯を揺すり上げた。壁の透き格子から土間が窺える。
「どうだ、あの二人」
鼻先が示した向こうでは、カラバドがおずおずと立ってベンチを勧めている。シキは解けた髪をひねりながら立ち尽くしている。
「ああ、そこは素直に座るんだ。で『隣にどうぞ』みてえなことが言えねえか愚図」
「ちょいと、アリンたら」
「うんうん。界隈のチンピラ連中と馴れ合わねえ愚図には助かってたが、どうして釣り糸の先に上等の魚ァ引っ掛けてきた、なあ。シキっ子上首尾、上首尾」
「あたしのお姫ちゃんと …… あの男? ヨソ者じゃないさ、今日会ったばかりの!」
最後は金切り声になり、アリンは「しーしー」と言いながら物入れの扉をやかましく開けたてした。
「なるほどいかにも山だしだが、身繕いは悪くねえだろ。港にゃ仕事で来たんだろうが、取り引き放っぽって娘っ子追っかけてられる身分ってなお前、どうしたってボンボンだ」
コーラは改めて格子の隙間からのぞいた。片手で物入れの扉をきしませ、同じく声をひそめる。
「そういや、連れには『他行するとごまかし』なんて言ってたけど」
「だろ、物言いが偉そうだろ。坊ちゃんなしでも実務は番頭がつかまつるのさ」
「んんー」
言われてみれば夫の言う「坊ちゃん」像が見当たるような気もしてくる。考え込みながらコーラは引き戸を右へ左へ、アリンは適当に物をつかみ出してはガランと放った。騒がしいのが好きなプエリョが「やう」と声援を送る。アリンは赤ん坊の頬をくすぐった。
「そうだ矢だ。見失うとどうのって名誉にこだわるのも、ありゃ貴種の証だぜ」
「そうだろか。山猟師さんの風習かもよ」
「猟師ってのは、だ。獲物のたかで価値をはかるんだ。おりょ」
探してもいなかった目打ちが出てきた。得意げに振り立てる。
「矢じりィなくそうが弓なくそうが、それで損が出ない程度に猟が立ってりゃいいのよ。お前どうだプエリョ、父ちゃんが稼いでりゃ文句ねえだろ」
赤ん坊はもうトロリとしていて、代わりにコーラの鼻息が答えた。
「稼ぎの実体を脇へ置いてだなあ、吉祥の数だ特別誂えだ、絵空の格式にこだわるのは権威すじさ。権威しか店に並べる品がねえわけよ」
「そういうもんかしら」
「あの坊や、おうちは土地の偉い衆だ。首賭けたっていい」
そんな見飽きた首いらないけどさ、と呟く声を背中に、アリンは目打ちをピラピラさせながら出て行った。
「目打ちはあった。だが俺の気が変わった」
「え」
「拾ったなァうちの子だ。となるとその石もうちのもんだ」
「そんな」
「父さん、あたしはいいんよ」
聞く耳持たん、と遮る仕草がいかにも怪しく、シキは視線で母に尋ねたが、コーラも「お父さんに任せるのよ」としおらしい。コーラの「任せる」は「ほら言ったじゃないかと後々喚(わめ)く」という意味ではあるが、とにかく何かの合意の成立があったらしいと察したシキは、やれやれと引き下がった。
ずいとアリンが進み出る。
「貴重石をかすめ取ろうって筋書きかもしれねえ。女をコマす新式の口説きかもしれねえ。とにかく俺は急に疑り深くなった」
離れた離れた、と割って入る。二人きりにされたのは無理矢理なのに、密通現場を押さえた親の顔で追い立てられると、カラバドも「矢じりを下さい」ではなく「お嬢さんを下さい」と言わねばならない気がしてくるが、
「いやいや。矢じりを、下さい。どうか」
「ははん。ならこの石が確かに話の通りだって証を出しな」
揃いの矢じりを見せてみろというのだ。しかしカラバドは旅装束で、護身のための短剣を帯びてはいても矢筒は郷里へ置いてきた。「じゃ取ってくりゃいい」とあくまで冷淡なアリンになるほどと威儀を正し、
「帰郷すぐに取って返し、必ず証をお目にかけます」
小さな石のために片道五日を往復するという。口調は逢瀬の誓約めいて、娘が目の縁をぽっと赤らめ、夫婦は目配せを交し合った。
派手に啖呵を決めた後、「あのう、帰り道が分かりません」と白状したカラバドを、アリンが港まで送ってやることになった。
「シキさんは、足が速いのかなあ …… ついていくのがやっとで、どこを通ってきたやら」
言い訳しながら、カラバドは今も人とすれ違い損ねてはすぐに遅れがちになる。
「街育ちだからねえ。人ごみ抜くのは慣れてんだ。いいから俺に張り付いて歩きな」
カラバドが有難そうに背後に収まり、アリンはここが反物町ここが酒屋町と、町並みを指さし歩いた。広い運河沿いに材木商の立ち並ぶ木場町まで来れば港はすぐそこだが、
「ちょっと寄り道」
二人行列は、とある商家へ折れた。
木の香漂う木挽き場を抜けると、職人たちに囲まれた主人らしき男が手を上げ、アリンはコンと顎をしゃくった。
「よおノシリ。お前んとこじゃいつから、しみったれた間伐材なんて扱うようになった」
「耳が早いな、アリン」
材木商ノシリはぐいぐいと腰を曲げ伸ばし、立ち仕事の凝りをほぐした。
「間伐材でもないよりゃましだ。いいのはあらかた攫われちまって、仲買があちこちの半端材をかき集めてきたのさ」
「攫われてた?」
「誰かが生木を現地買いしたんだ。新造船団でも作るんじゃねえかなあ」
そう言や焚き付けをありがとよと帰り尻に言い置いて、次にやって来たのは造船区。船大工の差配を見つけて景気を訊ねると、
「ああ。そこそこ凪、そこそこ追い手か」
新造船団などと派手な噂は聞かないという。木材産地で今年の生木が払底するほどの急な新規事業というと「新造船、堤の埋め支柱、巨石運搬のコロだ」とアリンは指折り、残る二つについて土方職、石材卸と回ったが、いずれもそれらしき動きはなかった。
「となると燃料だ」
燃料薪は自分にとって血と同じ、火事があったらそこで吹き玉を回したい位だがね、と言って、硝子工房のタルー親方は首を振った。
「いくら木が入り用ったって建材にするような丸太なんだろ。使い辛くて仕方ねえよ」
「細切れにバラしゃいい」
燃料薪はどの土地でも住民の生命線で、おいそれと買い占めることはできない。手間のかかる建材丸太でも何でもいいから燃料を欲しがる稼業というと、あとは鍛冶屋だ。
「鍛冶屋が大繁盛。つまり戦争さ」
アリンはここが見せ場と低く唸った。
「どっかで誰かが、武具の注文を出したんだ。大量にな」
タルー親方は仕事の指図に忙しく、決め台詞に感じ入ってくれたのはカラバドだけだったが、アリンは得々と続けた。
「蛇の道はへび。獣道なら山猟師だが、金の道すじ辿るなら、金貸しに訊けってな」
「金貸し …… 」
ぐるりと巡った商家は皆アリンの債務者で、それは簡単に内情を話すわけだとカラバドも腑に落ちる。
「血を吸うダニのように思ってくれるなよ。コツさえ飲み込みゃ真っ当にやれる」
プエリョもゆくゆくは立派な跡継ぎとして仕込み、さて姉の方だがと自然に話を繋げる目論見が、はずれた。
「すみません。その武具、発注元はうちです」
お見それしましたとばかり、カラバドが頭を下げていた。
クロランドは良質の岩塩を産する。尾根を穿った切通し道を運び、山向こうの港で岩塊を船積みすると外洋回りで大都まで十日。馬と川船で行く細道より大量輸送には適している。その切通し道を、谷の衆が海側から塞ぎ立てた。通行料を寄こせというのだ。
「岩塩のおかげで元手はあるものですから、うちの者も気が大きくなっていて」
鎧だ大砲だと注文したはいいが、さて軍備を運び込むのに敵地である切通し道は使えない。川船ならと輸送の算段に来てみたが、物騒な荷の入港が大都で許されるのかどうか。
「不細工な仕儀で。弓矢の技しか知らず」
アリンの見立て通り、カラバドはクロランドの長老格の生まれだった。長老衆議で異を唱える時は発言資格を示す吉祥の矢が必要だが、一本失ったことを隠しているうちに、戦準備が進んでしまったのだという。
「でもシキさんのおかげで矢が揃った。これで反対発言ができます」
「そいつぁ大した …… え、だが矢じりは」
矢じりはアリンが渡さずにいる。お預け気分を盛り上げるつもりでいたのだ。
「すぐに郷里からひとつ持って来ます」
「んな悠長な …… 差し迫った話だってのに」
カラバドの方は涼しげにしている。
「証を見るまでアリンさんが僕の話を信じられないと言うのだから、当然の手順です」
アリンはむぐむぐと唇を噛んだ。
「ったく、まっすぐな野郎だなあ! 金の矢じりと銀の矢じり、どっちもやるよ!」
「は?」
「分かんなきゃいいや。おいタルー、誰かにひとっ走りうちへ行ってもらっていいか。コーラに『クロランドの流れ矢よこせ』って言や通じる」
親方が指ひとつで命じ、見習いの少年が駆け出すのを、アリンは晴れ晴れと見送った。
「あの、アリンさん」
「返してやるよ。そんで戦争を止めてきな」
しばらくして、カラバドから万事収まったと誇らしげな手紙があった。
「近くお礼に参上しシキさんに髪飾りを差し上げたい、だとよ。猟師ってな義理堅いね」
山はいいねえ人間がまっすぐんなるねとしきりに持ち上げる。シキは書斎机の脇で聞いていたが、「内緒のことがある」と言って顔を上げた。
「何だ、怖い顔して」
「あたし、木場のミロイと、木場じゃない場所でも時々会ってる」
アリンは証文の束をわさわさと崩した。
「ノシリんとこの三男坊、あんなもんと」
「あんなもんって何よ。いい人よ」
「いい人が聞いて呆れる。人の娘こそこそ連れ出しやがって。おいシキ坊、あの野郎にふざけた真似させてるんじゃあなかろうな」
遠回しな言葉にも閃くように反応し、シキは首まで真っ赤に染めた。
「あ、歩きながら、楽しくお話するだけよ。父さんがうるさいから人が来ると離れたりして、すっごく気を使うけど!」
なんだ脅かしやがる、とアリンは書類を集め、トントンと揃えた。
「他の冷や飯食い共を出し抜こうってハラなんだよ。お前と一緒んなりゃ家の借金が何とかできんじゃねえかと思ってやがんだ」
「父さんこそ、あたしとカラバドさんを何とかしようとしてるのは分かってるんだから」
「カラバド! あいつの何が不足だ」
「勝手に気を回さないでって言ってるの」
「それについては、あたしもちょっと」
賑やかな喚き合いにプエリョはご機嫌で、コーラはのんびりと吊るし帯を揺すった。
「あちらは間違えて戦争まで起こそうかってご大家だろ。シキちゃんは下に見られて肩身の狭い思いをするんじゃないだろか。だったら借り子に縁付けて貸し倒れになっても、それで恩を売れりゃさあ」
「娘を証文の添え合わせにしろってか」
「箪笥ひとつで済むような慎ましい嫁入りのがいいってこともあるよ」
「箪笥ひとつだ? ふざけるない。クロランドの山彦もしゃっくりするほど持参金つけてやる」
「お金の問題だろうかね、お前さん」
「他に何が問題だ」
「カラバドさんの気持ちとか」
「気持ちだー? そんなものはねえ」
「ないわけがあるかい。自分と一緒にすんじゃないよ」
「いーや」
アリンはムキになって証文の束を振りかざした。
「あいつは俺とおんなじだ。腹ん中にごちゃごちゃややこしい気持ちなんざ持っちゃいねえんだ」
「じゃ、あたしの気持ちは?」
「母さん、それあたしの台詞」
「だってお姫ちゃん」
コーラは太い腕でひしと娘を抱きしめた。
「大事なひとり娘だものさあ」
「むぐう」
赤ん坊の薄い巻き毛に鼻をこすりつけながら、シキはもがいた。
「プ、プエリョがいるじゃない」
「じきに父さんそっくりの金貸しになっちまうよ」
「悪ィか」
「母さん、苦しい」
「やっぱり嫌だよ、馬と船で五日もかかる遠いとこ」
「あのう、じゃあ近ければいいですか?」
凍りついた親子が振り向くと、書斎のアーチを背にしてカラバドが立っていた。
「玄関で声はかけたんですが」
戸締りの固い金貸しの家だが俺が惚れ込んだら家族も同然だと、門扉の錠の合わせ番号まで教えたのはアリンだ。
手紙と一緒に到着してしまったバツの悪さもあり、カラバドはつんのめって室内へ通った。
「コーラさん」
「え、あたし」
「シキさんと話をしてもいいですか」
「あ、どうぞどうぞ」
母親の胸から押し出され、シキの髪がふわふわと崩れる。
「僕自身に、不足はありますか? その、木場の人と比べて、口を利くのも嫌だとか」
「いえあの、ちょっともないです。あんなもの」
アリンとコーラが声に出さずに「あたた」と言って、カラバドが「では」と息を整え、シキは髪を直すこともできずに立ち尽くした。
「もし僕が港に家を持ったら、そこへ来てくれますか?」
片道五日の細道も捨てたものではない。仲買に任せず、買い手と直に繋ぎを作れば、少量輸送の損を相殺できる。ならお前がそれをやれと、惣領息子が岩塩の受け荷を任された。港に住んで、買い手を募り、荷を捌く。
「 ―― 港ならあの、すぐそこですね」
「ええ、馬も船もいりません」
「ほんと」
うなずき合ったまま、馬も結構好きですがとカラバドが言い、あたしもですとシキが言い、アリンが床板の目地を数えて、たまらずコーラが手を叩いた。
「まずは座りましょ。こんな散らかったとこじゃ落ち着かない」
二人の背中を押し、のそのそと書類を片付けるアリンをどやかして、皆で書斎を後にした。
「ほんとにすぐそこ。夫婦ゲンカしても家出のし甲斐がないことねえ」
居間に落ち着き、シキが飲み物の準備に立ってしまうと、もう「はい、喜んで」を言うためのうまいきっかけがどこにもない。異議がなければこのまま行きますよとコーラが言外に含みおき、何となく受け入れられている。
「あたしなんか実家がドレン島で、いえね、湾の端っこにぽつんとある離れ島なんだけど船便が少なくて、一度行ったら帰ってくるのにひと苦労」
賑やかにまくしたて、ねえお前さん、と水を向けたがアリンの顔は晴れない。ひとり腕組みして窓枠に腰かけていたが、フウと背中を丸めた。
「何よ、さっきから景気の悪い」
「いや、こうなってみると何だ。俺が下手なちょっかいを出さずとも、物事はなるようになるのかも知んねえなあと思ってさ」
すねた老猿のようにゴリゴリと顎を掻いている。
あらお前さんと言って、コーラは手真似でキュウと弓を引いた。
「矢の飛ぶ先なんて、初めから定まっているものよ」
ああん? と顔をしかめ、アリンはぴょんと座り直した。
「うまいこと言ってんじゃねえ。このお調子ぐるまの、踊り天秤」
「はいはい」
悪口雑言が戻ればいつものアリンだ。
「白まんじゅう、小型の海坊主」
「あらやだ」
「ドレン島の酒飲み魔女」
「もう黙りな、この口だけラッパ」
コーラの目つきが鋭い。
「ラッパで結構」
アリンがにゅうっと口をとがらすとどこかで「ぷっぷう」と音がして、コーラの腕にそっくりな顔した赤ん坊がいた。カラバドはたまらず噴き出した。
茶器棚の前でシキは髪を解いている。並べたカップに香料が溶けるのを待ちながら、赤い紐の先に小さな石を結び付けている。震える手元がキラキラと光った。
「当分狩りはしないから」とカラバドが改めて贈った髪飾りは、そもそもの初め、港の雑踏で若い二人を引き合わせた、吉祥の赤い矢じり。