このたびはダウンロードありがとうございます。 ご一読後、サイトにて作品へのご感想などいただけましたら大変うれしいです。 【著者】歩く猫 【URL】  別冊猫背文庫 http://book.geocities.jp/betuarukuneko/  挿し絵はこちら http://book.geocities.jp/betuarukuneko/gallery/top.html  地図もあります http://book.geocities.jp/betuarukuneko/gokuchu/g-index.html 【ダウンロード版アップデート】2016/04/07 =========================== 「カルサレス卿の獄中記」 =========================== ■1  遠くから来た旅人ほど、嘘が大きいという。  それが遠方であれば、話の真偽を確かめられる者は大方その場にいない。ちょっとした異国ばなしをせがまれているうちに、語り手はつい話を膨らませてしまうのだろう。  今この窓の下で繰り広げられている光景が、ちょうどそれだ。  砦の中庭である。  交替を済ませた歩哨が、五〜六人車座になって焚き火を囲み、夕めしの粥をかきこんでいる。  がやがやした話し声は入り混じらず、塔の壁をまっすぐかけ登ってくるので、最上階にある私の独房からも、内容がよく聞き取れた。 「そこでオレは、奴をじいっと見ながら考えたね」  男たちは傭兵の常として互いに武勇伝を交換し合っているのだが、中のひとりの話がどうもうさんくさいのだ。 「さて、こいつはどっから見ても人間だが …… 」  言いさして中空を見つめ、匙(さじ)のお尻でぼんやりと額を掻く。 「ゆうべ仲間を食い殺したオオカミも、額にこんな傷がなかったか?」  一気に声を大きくすると、“やあだ、おっかない”と女の声が上がった。下働きの女たちは粥の鍋を運んでいて、鍋の腹がごとごとんとぶつかり合う。 「ツオダイの半人半獣の化け物っていうから、あたしらてっきり体が半分こに人と獣なんだと思ってた」  脅かしの反動で、女たちは沸き立つように騒いでいる。男は満足気に匙をなめた。 「そんなもんは年寄りの昔語りか市の日の見世物だろ。暗い幕屋ならまだしも、道で会ったら笑っちまうよ」 「あっは、ほんと」 「オレは本物に出くわしちまったの。いい天気のまっ昼間、人間さまのフリして歩いてる奴にね」  男のしゃべり方には独特の訛りがあり、口の端から息がしゅうしゅうと漏れる。反応を見てひと呼吸待ち、流れを探る様子なのがまたいやらしい。そして話の肝にかかると、西方趣味に波打たせた髪をわさりと打ち払うのだ。 「いやゾッとしないもんさ。頭の毛がぜんぶ逆立ったね」 「長い毛ねえ、ご飯のときはまとめたら」 「よう、こっちもう一杯くれ」 「はあい」  どこでもこんな話をして女の気を引いているのだろう、聴衆の興味が薄れていく気配も敏感に察して、男はパチンと指を鳴らした。 「あっちじゃいよいよご領主のおふれが出てさ、一匹退治すりゃ金貨ひと袋、巣穴見つけりゃ金貨三袋って、相場までキチンと決まってるわけ」 「んまあ」  金の話になると女は驚嘆したがるもので、勢いのまま、木じゃくしが粥をどぶんとすくいあげ、男は上機嫌でお代わりの椀を出した。 「あたし、金貨って見たことないわ。チーズみたいに黄色いの?」  別の女が言って、湯気の立つ何かをカップに注いでやる。男は内緒の告白のように身を乗り出した。 「オレは金貨より、あんたの髪の色のほうが好きだがね。赤毛さん」  ひねりのないお世辞でも田舎娘にはてきめんで、赤毛嬢はもじもじと黙り込んでしまった。 「で?  お好きでない金貨は、一体いく袋もらえたわけだい」  兵士のひとりが言った。女ウケを狙いすぎて、仲間からはそろそろ煙たがられ始めたようだ。見事に化け物を退治して、たっぷりの金貨で報われたのなら、こんな遠い国まで来て、うだつのあがらない傭兵稼業を続けているわけがない。  男はまたぶるんと髪を振った。 「それが、惜しいところで取り逃がしてなあ。シッポをつかんでぶった斬ったのを、お役人のとこに持って行ったんだが、ああ、銅貨一枚投げられたっきりさ」 「そいつはシケてる」 「仔豚のシッポだってもうちょっとするぜ」 「焙(あぶ)っておやつに食っちまやよかった」 「毛皮を剥いでさ」  てんでにくさす口にも動じず、西方男は“全くその通り”と聴衆を見渡した。 「後から聞いた話だが、その役人ってのがコスい野郎で、巻き上げた獣人のシッポで愛人の襟巻きを仕立てさせた」 「はあん」 「怒り狂った奥方が、半分獣と化したってさ」 「うはは」  焚き火の炎が賑やかに踊る。どの笑顔も火明かりの内側を向いており、頭上を気にする様子はなかったが、私は手の中で笑い声を殺した。  なんとも調子のいいことだ。毎晩耳にするバカ話の中ではあの男の異国譚は出色の聞き応えで、話しぶりも巧みだったが、計ったような間合いがかえって鼻につくきらいがあった。要所要所で髪を打ちやる仕草もいけ好かない。笑いすぎてよろける赤毛嬢を大げさに支えながら、ほらまた頭を振った。そんなに邪魔なら切ってしまえ、いもしない獣人のシッポをちょん切る前に。私は大きく舌打ちをした。そのとき、 「旦那からひとつ言っておやりになりゃどうです」  背後から陽気な声がかかって、私は急いで首を引っ込めた。 ■2  慌てた拍子に後頭部をぶつけた。 「ネグトレン」  頭をさすりながら振り向くと、独房扉の覗き小窓に、牢番のネグトレンのニヤニヤ笑いが張り付いていた。 「よっく首をお出しんなりゃ、充分下まで聞こえましょう。言っておやんなさい。ツオダイで、そんな布告は耳にしなかったと」 「いや、楽しみに水を差しては悪いし」  がちゃりと錠が鳴った。大きな盆を支えたネグトレンは、スタスタと室内に入ってくる。 「それに、私もツオダイのほうに行ったことはないから」 「んなこた関係ありませんやね」  鍵束をベルトにしまいながら足で扉を閉めるあいだも、大きな盆は小揺るぎもせず、滑るように小卓へ向かう。 「関係ないのか」 「遠くから来た旅人ほど、嘘が大きいと申しますでしょう」  頭の中をのぞかれたかとギクリとした。親しく過ごしているせいだろうか、この男には近ごろ考えていることをほとんど言い当てられてしまうのだ。 「これは、遠くから来た旅人ほど嘘がバレにくいって意味んなる。違いますかね?」  話しながらネグトレンは流れるように食卓を整え始めた。私も自分で丸椅子を運び、定位置に据える。  ガタつく粗末な小卓も彼の手にかかると、王侯の晩餐のような雰囲気が漂い出すから不思議だ。ぱりっと洗濯された手巾が添えられているのも心憎い。 「旦那だって連中に取っちゃ、ツオダイと同じくらい遠い辺境から来たお人だ。行ったことがある、ツオダイなら自分もよく知ってると、旦那が強くおっしゃれば、ああそうなのかと素直に飲み込む奴らですよ」 「そうだろうか」  私は手巾を取って襟元に押し込み、まずは食卓の眺めを楽しんだ。粥は兵士たちと同じ鍋から取ったものだが肉は煮込んだのや焼いたのやさまざまあり、品数は豊富だ。 「あの男が、ツオダイでしか見られないこういうものを知っているかと言って、私を試してきたら?」  小ぶりのピッチャーに鼻を近づける。 「こちらからも、では例のあれを知っているかとやり返しゃいい」 「ふーん。すーはー」  相づちのついでに香りを楽しんだ。少量だが毎日出るワインは、駐屯部隊の隊長どのの樽から出される上物だ。  意地汚い兵士もいて、持ち回り仕事である牢番の特権とばかり、ピッチャーから半分ほども飲んだあとに悪い酒が足されていることもあった。しかしこのネグトレンが食事の盆から物をくすねたことは、これまでのところ一度もない。  食い物を基準に人を判断するようになってしまった自分がちょっと情けなく、私はピッチャーを押しやった。 「例のあれとは …… 何か適当にでっちあげるのか」 「面白いやつをね」  ネグトレンは楽しげに言って、簡素なカップに酒を注いだ。 「連中にとって大事なのは、どっちの話が本当かではないんでさ。どっちの話が面白いか。これに尽きましょうよ」 「出来のいいホラを吹いたほうの勝ちということか」  私はナイフで肉片を突き刺した。お行儀悪くかじりつく ―― アタリだ。  料理女の中にひとり、肉とソースの官能的関係について悪魔から奥義を盗んできた者がいるらしく、たまにこういうとびきりの一品が出る。私はゆっくり咀嚼した。  どろりと濃い肉汁は香草が効いていて、精妙な香りが鼻に絡んでは消えた。ひと口ごと、ひと舐めごとに新たな色欲をそそられるので、魂を盗られると分かっていても悪魔の取り引きに乗ってしまう空腹の旅人さながら、最後のひとしずくまで舐め尽くさずにいられない。これでうまいチーズでも数種あれば、もうこの独房を終(つい)の住みかと決めたいほどだ。   ――― などと私が考えていることも、この男にはすっかりお見通しなのだろうか。ニヤニヤ笑いが引っ込んでも、顔立ちが軽薄なのでいつも何かを面白がっているように見える。何かを …… がっついて食べる私の顔を? 慌てて口元を拭ったところ、手巾にはシミひとつ付かなかった。口の周りのソースは残さず舐め尽くしているのだから当然だが。  ネグトレンはぷいと窓穴に向かう。 「連中、華やかな前線で手柄を立てる機会はしばらくないと分かってる。退屈な後詰め任務の、いいヒマつぶしを探してるんでさ」  そう言って壁にもたれると、ズボンの膝でブーツのかかとを磨き始めた。給仕らしく背後に直立で控えるなどということはしない。平民に馴れ馴れしい態度を取らせて黙っているべきではないのかも知れないが、この男にはなぜか、それを許してしまわせるところがあった。  年は二十四になったばかりの私より、上にも下にも思える。若いのに私よりしっかりして見えるのか、ふてぶてしい外見どおり私より上なのか、いずれにせよ私のほうが人間的重みで負けているのは明らかだ。意味もなく悔しいので、絶対に年は訊ねない。  また、窓から遠い嬌声があがった。 「ヒマつぶしか」  私はカップの中につぶやいた。 「特に今は、私という退屈な虜囚を見張る以外することがないのだからな」 「あれ、そう腐りなさんな。女たちだってあんなキザ野郎どうとも思っちゃいませんさ。旦那のほうが男前男前」  憎らしい口調だからこそ、ムキになってはいけない。髪に牛小屋の干草をくっつけたような百姓女たちにチヤホヤされることが、わびしい捕虜生活の唯一の慰めだなんて認めてしまったら、自分がみじめになるばかりだ。 「おや、それは嬉しいね」  私は最後の肉片を使って、悪魔のソースを器の端に集める作業に集中した。 ■3  集めたソースを残らず粥の器にあけてしまう。  今日の粥は、かき混ぜる作業で少々手抜きをされたようだ。私はダマになっているところを丹念につぶしていった。 「しかし捕虜に興味を示したりして、彼女たちはあとでひどく怒られていたりはしないのかい。それが心配だよ」  私の独房が邸内の居室からこの塔へと変更になったおり、私は兵舎のある中庭を通って徒歩で移送された。女たちとはそこでたまたま行き合ったのだが、きゃあきゃあクスクスと賑やかな騒ぎが聞こえたと思ったら、翌日から独房に、毛皮やら火鉢やらが差し入れられるようになったのだ。中庭を仕事に向かいながら、塔の窓穴へそっと手を振って寄こす者もいる。 「特にホラ、元気な赤毛の娘がいるだろう。あの子の名は何と言うのかな」 「赤毛っても、何人かおりますが」  ネグトレンがあさっての方へ言い、一番可愛い子だよ! と地団駄踏みたい足をもう片方の足で踏んだ私は、卓の上で王侯貴族のお食事を続けた。 「もちろん彼女だけでなく、他の皆にも感謝しているよ。おかげで暖かく過ごせている」  粥がすっかりこなれると、よく絡んだソースから小さな脂の玉が浮いてくる。キラキラと器のふちに連なる黄金(こがね)色の数珠球を私は惜しげもなく引きちぎり、たっぷりとひと匙すくった。 「そこの扉のところまででいいから、一度来てもらってはいけないかな。ひと言礼が言いたいんだが」 「いや、お気遣い無用」  ネグトレンは腕組みして、私が粥を口に運ぶのを見守っている。 「寒さに震える人に手を差し伸べるのは、神に仕える身なれば当然の奉仕でさ」 「はぷっ」  きれいに粥を噴いた。神に仕える? 「かの、彼女たちは、そのへんの農家から借り出されたんじゃないのか?」 「おや、ご存知なかった」  そらっとぼけているが、これは絶対に分かっていて黙っていた。そういう顔だ。こぼした粥も大きな手巾が受けていて、ここまで読んでいたのならお手上げだ。 「どこの馬の骨とも知れない傭兵が集まる砦に、土地の男が妻や娘を寄こすわけがありますかね。あれは伝道教会の修道女たちでさ」 「しゅ、修道女 …… 」  ネグトレンは人差し指で空中に聖印を切った。 「まともな兵士なら、戦場で天の加護を期待できなくなりそうな行いは、慎みましょうからね」 「だからって仮にも尼僧が、あんな気安いふるまいをしていていいのか」  私は窓をチラリと見た。が、下はもう静かで、炉辺がたりもお開きとなったようだ。防備に割ける人員が少ないこの砦では、次の交替はすぐに回ってくる。兵士はそれまでにしっかり休養を取っておかねばならない。 「気安いったって旦那、ありゃあただのおしゃべり雀でしょうが」 「いや、まあ」  確かに女たちはどの兵士とも親しげに話していたが、それ以上の浮ついた素振りは見せない。搭をクスクスと見上げることはしても、意味深な言づてを寄こしたりまではせず、だけど私は当然、彼女たちは兵士のいずれかと、その、なんだ。個人的なおしゃべりをしにどこかへ行くこともあるのだろうと思っていた。とにかく何をするにもかしましく、世俗の娘っぽさ丸出しなのだ。あんな尼僧があるものか。  ネグトレンは私の不満顔をニヤニヤと眺めている。 「彼女らは別に、貞潔の誓いを立ててるってわけじゃありませんぜ。正式の尼僧とは違いまして。結婚したいって相手ができりゃ、尼僧長んとこに連れて行って、きちんと面通しをするんで。お眼鏡にかなえば、晴れてお許しをいただける」  そら。やはり相手を物色中でもあったわけだ。私がちょっと勘違いをしたって仕方ないはずだ。 「まあ、おカタい田舎娘ですよ。旦那のつまみ食いのお相手には不足でしょうな」  また考えを読まれている。私はどれだけ物欲しそうに見えるのか。 「そんな宗派は初めて聞いたぞ」  私は匙をカンカン鳴らして器の底をさらった。 「土地がらで教義もさまざまでしょうよ。ここじゃこういうやり方で、万事うまく運んでるんでさ」 「ああそう」  まったく。兵士とのあいだに無用のいさかいなど起こさぬよう、誰が誰の決まった相手なのかきちんと見定めてとまで気を回していたというのに。 「その伝道教会というのは、大きな教会なのか」 「まあ尼僧長というのが、ここらじゃちょっとした人物でしてね。ひとにらみで、どんな王侯貴族も大人しく教会の入り口に剣を預ける」 「ほう」 「王の軍隊相手でも、思ったことを言えるんでさ。兵士の規律にも口を出す」  ネグトレンは、ぐいとアゴを上げた。 「事情を知らんよそ者が、調子に乗って女たちにコナをかけるような真似を始めたら …… いや、あのキザ野郎みたいな奴ですよ」  私がもじもじと座りなおすのを、また面白そうに眺める。 「またたく間に尼僧長のお耳に入るはずなんで。近いうち隊長んとこにお達しが来て、ギュウという目に合わされるんじゃないですかね」  その通りになった。数日後、私は塔の窓から、伝道教会のものらしき聖句を唱えながら裸足で中庭を往復し、薪割りの苦行にはげむ西方男の、髪振り乱した姿を眺めて楽しんだ。 ■4  私がこのネグトレンと親しく言葉を交わすようになったきっかけだが、あるとき彼が私に、火のついた油をぶちまけたのだ。  塔に移る前、私は他の捕虜たちと同じように、邸内の居室を独房として割り当てられていた。その日も砦の指揮官であるイウォリ隊長が部屋に来て、差し向かいの尋問と相成った。 「さてカルサレス卿。貴公の身代金だけが、いまだに支払われる気配もないというのは、一体どういうわけでございましょうな」  言葉は丁寧だったが隊長は上座も譲らず、部屋で一番上等な椅子を占領していた。 「先のエンデシュの戦いで捕虜となった騎士がたは、いずれも相応の身代金と引き換えに、無事ダシート王の陣にお返し申し上げた。もうこの砦で、売れ残っているのは貴公だけですぞ」  まるで嫁き遅れの娘をなじる口調だ。こちらを若造と見てあなどっているのだろう。丸々と太った男で、身頃や肩口にひだを寄せた軍装はさながら巾着袋。この巨体を支えるのに並みの椅子では間に合わないのだろうし、年算と体重の序列に従い、上座は譲ったものの、 「待ってくれ、イウォリ隊長」  背のない椅子に座らされた私は、お小言を頂戴している気分だけでも振り払おうと肩をそびやかした。 「私は身代金を要求されるいわれはない。他のかたとは違うのだ」 「そうそう。貴公の捕縛は合戦の場ではなく、エンデシュ原からはほど遠い、シバム山中の道端でしたな」  隊長の目がすうっと細まり、私は椅子の上でまた小さくなった。 「ちょっと、エンデシュにたどり着く前に、山道で案内の者とはぐれてしまったのだ。山越えに詳しい土地の男を雇ったのだが、金を払ったら途端にまかれてしまって、あたりを従者に探させているところを、私だけあなたがたの部隊に見つかってしまって」  格好のつく言い訳をしようとするからこうしどろもどろになるのだ。もう開き直ろうと、私はぐっと胸を張った。 「とにかく、金はないのだ。私の所領は大して豊かではないから」 「またまた」  隊長は天を仰ぎ、太鼓腹の上で手を組んだ。 「貴公の装備は武具から甲冑、馬具ひとつに至るまで、一級品ばかりでござったぞ。金がないなどと見えすいた方便に、いつまでしがみついておられる」 「いや、本当にうちは貧乏なのだよ。一族の者も駆け回って金を集めているだろうが、できればもうちょっと値下げしてやってくれないか」 「値下げ …… 」  たるんだアゴの下で巾着袋が膨れ上がった。隊長が息を吸い込んでいるらしい。腰の革ベルトがぎゅうと悲鳴をあげた。 「我がプノールンプルン王を愚弄するのも大概になされよ!」  この新興の王の名は、いつ聞いても笑いがこみ上げる。かの王の側近たちはどうしているのだろう。御前会議のたびに尻でもつねって耐えているのだろうか。 「本当に払えないのだ。信じてもらいたい」  頭を抱えるフリをして笑いをかみ殺したが、大げさな苦悶の演技に見えてしまったかも知れない。隊長はフン、と鼻を鳴らした。 「ご一族で全額が揃えられないのなら、ダシート王が足りない分を出せばよいのです」 「そうですとも。それが正しき王の道です」  背後に控えていた副官が調子を合わせた。ひょろひょろと縦に伸びた身丈を持て余しているのか、重心が定まらない。しゃべりながら音節に力を入れるたび、細い体がぴょこんと揺れた。 「我がプノールンプルン王はいつだってそうなさります。騎士の命をあがなうのに主君がためらいを見せるなど、なんたる非道。真の王たるプノールンプルン王ならそのような ……」  慣れればこうも連呼できるようになるのか。“プノー・ルン・プルン”のリズムに合わせてずっとぴょこぴょこやられたのではたまらない。私は大声で副官をさえぎった。 「私は違う。ダシート王のためにまだ何もしていない。正々堂々と戦って負ければこそ金を払うのだ。これはただの誘拐だ」 「いやいや」  隊長は虫を払うように片手を振った。 「貴公はダシートの旗標をたずさえ、武装して山中に潜んでおられた。遊撃(※注)とみなすのは当然」 「私はそこでのんびり火に当たっていたのだぞ。遊撃も何もない」  その焚き火の煙はこのシオレンカ砦からも見え、私はそうして無様(ぶざま)に捕まったのだった。  この話は砦じゅうで評判を呼んだらしく、兵士たちの炉辺がたりにも頻繁に登場した。道案内にまかれて戦に遅参したというかなり恥ずかしい言い訳を堂々と盾にする“ぼんやりのお公家さん”像は、私の人となりとして部隊内ですっかり定着してしまった。 「私はあなたがたの兵に対して、剣すら抜かなかったでしょうが」  なるたけ弱々しく言ってみる。普段であれば、この話題になるとさんざん私を馬鹿にして楽しむくせをして、隊長は「それはそれ」と鼻息ひとつで片付け、 「こうなった以上、貴公の身柄は、正式の手続きを経ねばお返し致しかねる」  あくまで形式にこだわる構えだ。副官も深くうなずいている。 「ダシートのケチ王のこと。大貴族の身代金で、敵の金庫が潤うのが許せないのですな」  彼らの胸算用では、私の価格はどこまでも高額にすえられてしまっているらしい。 「大貴族などと、決してそんなことはないんだぞ。私の領地は遠方だから、プノールンプルン王の宮廷でっ、名が通っていないのも道理だがっ、ごほっほ」  ちょっと、自分でも王さまの名を言ってみたくなったのだ。やはりおかしい。私は口の中で頬の肉を噛んで耐えた。 ※「遊撃」=あらかじめ攻撃する目標を定めず、戦況に応じて敵の攻撃や味方の援護に回ること(大辞泉) ■5 「いやいや、委細は承知。お名前にはすぐにピンと来ましたぞ」  隊長は短い指でこめかみをトントン突いた。 「カルサレスと言えば、古きカーサル大王の地方傍系に当たられる名家」  そんな大王は知らないし、単に響きが似ているだけだと思うのだが、私が何か言う前に、 「おおー。さすが、イウォリ隊長」  もみ手の副官が割って入った。 「古きカーサル大王と言えば、かつてこのユワク全土をすみずみまで治めた覇者の中の覇者。“上代戦記”ですか」 「うむ」  隊長は満足げにうなずいた。 「原典にはない補記に、そんな記述があってな。辺境の三の巻だったか …… 」  目を細めて遠くを見やる。副官は長身を半分に折ってお辞儀をし、私をチラリと見た。 「卿、隠されますな。隊長どのは万巻の書に精通しておられるのだ。嘘をついてもすぐ分かる」  こちらへの脅しと隊長へのおべっかを同時にやってのけた。見た目はぺたんこだがなかなかの器用ものだ。  隊長はすっかり乗せられて、上機嫌で片手を振った。 「武人はなまじ学があると出世できんぞ。俺など“剣よりペン、盾より書”といった具合だからいかん」  なるほど。武術調練よりゴロゴロしながら読書三昧。軍装の横幅がそこまで膨れ上がった原因はそれだ。一応剣を吊るしてはいるが、ちゃんと手は届くのだろうか。太鼓腹と鞘の位置を私が目で測っていると、隊長は肘かけをミシミシ言わせて身を乗り出した。 「とは言え本の虫もたまには役に立つ。貴公の由緒正しきご出自については、本陣への報告書に詳しく述べておきましたぞ」  なるほど。私の身代金がとんでもない額になった原因はそれだ。私は演技でなく本当に頭を抱えた。  副官が張り切ってゴマをすり始める。 「プノールンプルン王の覚えも、さぞやめでたきことでしょうな、隊長どの」  王さまの愉快な名前にも、もうクスリとも笑えない。私がうなだれていると、隊長はゆったりと椅子にもたれ、両手の指を組み合わせた。 「しかし妙ですな? これほどの大貴族に、ダシート陣営から何の救済の申し入れもないとは」  私はなんとかいう大王の末裔と決まったらしい。私の主張は全く考慮してもらえなかった。 「きっと私の覚えは、そうめでたくないのだろうよ」  私は少々投げやりになって言った。 「ふむ。ダシート王との間に不和ありと、お認めになるか」  隊長がまた肘かけをきしらせる。 「そしてご一族からの支払いもない。金は払うなと、王からの横やりが入っとるのだ」  ひとり言にしては芝居がかった口調で言い、隊長はたるんだアゴに片手を添えた。 「よいのですかな? これはきっと、あなたを手っ取り早く片付け、ご領地をいいようにしてしまおうという、あの狂王のケチくさい魂胆ですぞ」 「それは、何たる暴君」  副官の合いの手が熱心になる。隊長は思わせぶりにひと呼吸入れてから、うっそりと言った。 「どうです。この機にダシートなぞ見限られては」  やっと話の流れが見えた。私は寝返りを勧められていたのだ。 ■6 「卿がお味方くだされば、我が王もさぞ心強く思(おぼ)し召すことでしょうな」  これは資金面でということだ。戦わずして降伏した私は、武勇を見込まれた覚えはない。 「違うと言うのに。あの支度は、装備の足りない私に近隣のあるかたがご親切にも揃えてくださって」 「富裕な後援者がおられると。ではそちらもお味方に」 「ダシートの有力な臣下を一度にふたりも。これは何ともナニですぞ、隊長」  巨漢とノッポが頬を染め、あれがナニしてと夢広がっている。 「待ってくれ、全くの勘違いだ。私はこれから初めて宮廷に出仕するところで …… だから支度だけでも立派にと」 「うひゃあっ!」  隊長が金切り声をあげ、巾着袋入りの巨体が跳ね上がった。 「こりゃ大変!」  背後で誰かが叫んだ。じんわりと背中があったかくなったと思ったら、えらい勢いで突き飛ばされ、視界のスミで炎がひらめき、私は椅子と一緒に転がりながら、乱暴に上着を剥ぎ取られていた。  床にへたり込んで見ていると、そこにいたのがネグトレンで、私の上着をブーツでドカドカ踏みつけていたというわけだ。 「お体まで熱は通らなかったようで。お召し物が上等な布地でよかった」 「野営の際も寒くないよう、かなり分厚いものだから」  ぷうんと髪の焦げる臭いがする。高く上がった炎に髷(まげ)が少しあぶられたようだ。まだぼうっとしながらふと見ると、隊長も副官もいなくなっていた。開けっ放しの扉の前で、見張りの兵士がオロオロしている。  私を助け起こしながら、ネグトレンは声を低くして言った。 「お立場を危うくするようなことは、あまりおっしゃらないほうがいい」 「え?」 「金がないなどはまだしも、ダシート王と面識がないってのはちょっとマズい。どっからも身代金が入る当てがないとなりゃ、旦那に捕虜としての価値はなくなるんですぜ」  ひそひそ言いながらネグトレンは床から油つぼをつまみあげ、垂れた油をぐるりと拭った。まだ煙をあげている私の上着が雑巾がわりにされている。 「捕虜になったってことは、騎士として命乞いを聞き入れられたってことだ。命乞いってのは金を払うってことだ。金を払えないならどうなるか?」  きれいに拭った油つぼを、ランプの台座にカチャリと戻す。 「じゃ、お帰りくださいなんてことになろうたあ、ちょっと思えませんがね」 「お前、私を助けるためにわざと火をこぼしたのか?」 「しっ」  通廊の向こうから、隊長と副官の足音がする。 「卿にお怪我はなかったか」  声は大分遠い。かなりの距離を逃げていたものらしい。 「はあ、ご無事のようで。大変な粗相をいたしまして」  部屋の外に向かって怒鳴り、私の背中をあらためるフリをしながら、ネグトレンはまたさらに声を小さくした。 「あのコンビ、篭城戦で火攻めを受けたことがありましてね。ぼうぼう燃える書庫に閉じ込められて以来、火にはめっぽう弱いんでさ」  あっという間に部屋を飛び出してったでしょうと言って、ネグトレンはニヤリと笑った。 ■7  そんなわけで私は、「敵方に寝返るかどうか思案中の大貴族」という肩書きで、このシオレンカ砦に長逗留することとなった。  本当の大貴族はすでに身請けされていたから、邸内でも一番いい居室が空き部屋になっている。そこを使わせてもらえるのではと期待したが、私が移されたのは、より警備の手のかからない、この塔のてっぺんであった。  捕虜の在庫がひとまず捌(さば)けたわけである。守備部隊は再編成され、このシオレンカ砦は最前線からさらに遠ざかる。建物の周囲にぐるりと見張りを配置しておけるほどの人手は、当面なくなるのだ。今では塔の昇り口に、兵士がひとり詰めるだけになっていた。  塔の壁面のまま円形をした独房には、三方に換気のための窓穴が切ってある。肩も入れられないほどの小さい穴だが、根性のある囚人ならこの穴をなんとか広げ、縄を垂らして伝い降りなど考えるのだろう。私は、三方ともにぼろ布を詰めた。てっぺんは寒いのだ。そのありがたいぼろ布は、女たちからの最初の差し入れだった。  火にあぶられた髷は切り落とすより他になかった。私の髪は固くて真っ直ぐなので、肩のところで切り揃えると元服前の童(わらべ)のようになる。中庭を塔まで引いて行かれたおり、女たちが騒いだのは、私の髪型が彼女らの目に、その、いわゆる、ちょっと可愛らしく映ったからだと、私は思っていた。 「黒いお髪(ぐし)も肩までの断髪も、教会のお堂に並んでる聖人さまの像にそっくりなんですとさ」  ネグトレンは腕組みして壁にもたれていた。私は別の壁ぎわに椅子を寄せ、私たちはそれぞれ別の窓穴から、外を眺めていた。 「女たちによると旦那は、お顔立ちまで聖キエトさまにそっくりなんだそうで」  颯爽とした武人の殉教者かと思いきや、話を聞くとそれは子供の聖人だそうだ。 「子供でも聖人になれるのか。早死にしたのか」  私は小さなカゴを膝に乗せ、女たちからの差し入れだという干した木の実をぱくついていた。じっとりと糖分のにじんだ果肉を噛みながら考える。私はもしかして、差し入れというよりお供えものをされているのだろうか。 「さてね。なんでも十二〜三の頃から巧みな説教をして、民衆の前で奇跡を起こしたとか、起こさないとか」 「結局どっちなんだ」  思わず振り返ると、体がぐらりと揺れた。毛布を積んで窓穴にすがっているので、私の玉座はかなり高さが出ているのだ。慌ててバランスをとる。 「奇跡は本物だったのか、イカサマだったのか」 「ですからね、話として面白いほうを取りゃいいんでさ」 「ふん」  私は木の実をむしゃむしゃしながら、窓穴へ種を飛ばした。 「塔の囚人の正体は、おのぼりさんの貧乏貴族だと言うより、主君を恨む辺境旧家の当主だと言ったほうが面白いのと同じか」 「そういうことで」  ネグトレンがニヤリと笑う。と、 「トレーン! そこにいた!」  中庭から声が上がった。見ると、ホラ吹きの傭兵にからかわれていた赤毛娘だ。横手の窓穴にいる私に気がつき、慌てて両手を組んでカクと膝を折る。祭壇への礼のような会釈を済ますと、ネグトレンがいるほうの窓に噛み付いた。 「かまどの掃除を手伝ってよ! トレンでないと手が届かない!」 「“トレン”?」  バランスを崩さぬよう、今度はゆっくりと振り向いた。ネグトレンお得意の見透かすような目つきを真似てやる。 「それで、このあいだ彼女の名を聞いたときも教えてくれなかったのか」 「そうでしたかね?」  ネグトレンは窓下へうるさそうに手を払う。 「名前はシュゼッタですがね」 「シュゼッタ。可愛いなあ」  私は大げさに腕を回し、壁に肘をついた。 「ではお前も、いずれシュゼッタにせかされて、尼僧長との面談に引き出されることになるわけだな」  想像するとなぜか小気味いい。頬杖をしながら私がニヤついていると、中庭にひとりまたひとりと女たちが集まりだした。 「トレンは上なの?」 「トレーン、井戸の滑車を見てくれるって約束でしょう」 「こっちが先よ。トレーン! ロバが歩かないの!」  三方それぞれ鼻にかかった“トレーン”の唱和が響き、むっつりと笑顔を収めた私の代わりに、ネグトレンの口の端が吊りあがった。 「トレーン! いいから降りてきて!」 「ああ、旦那」  ネグトレンは正式の辞儀を取り、尻からさがっていく。 「呼ばれましたもんで、ご免くださいよ」 「どこへでも行け」  私がぶん投げたカゴをぱしっと受け、色男は女の園へ去った。 ■8  私もただ女を眺め、飲み食いするだけで日々を過ごしているわけではない。 「今回もまたすごい数で」  ネグトレンは手紙の束を扇のように広げ、ばららっと指ではじいた。 「下手な射手でも矢数多ければなんとやらだ」  私は座ったまま背中を伸ばし、首と右腕をぐるぐるとほぐした。 「親戚やら縁戚やら、縁も何もない者にまで書いてみた。紙とインクだけは大量に与えられているからなあ」  手紙の内容はもちろん借金の申し込みだ。隊長には値下げと言って怒られたが、半額分でも集めておけば払う気がある意思表示と取ってくれるだろう。寝返りを承諾した際の、支度金にも使える。どっちに転んでも金は取られるがそこは仕方ない。  とにかく金をつかませたら、それ以上は鼻血も出ないと気づかれる前に、うまいこと言って逃げ出す。望みの持てそうな首尾だとは我ながらこれっぽっちも思えないが、まずは金がなければ始まらないのだ。 「さて。ダメもとで河向こうにも頼んでみよう」  私は白紙の束から一枚取り、ひらりと置いて卓の木目にたてよこを合わせた。 「あそこはうちより金に困っているから、迷惑だろうが」  インク壷のきわでペン先を回し、泡を落とす。書きものをするときの私の癖だが、文頭でしぶきが弾けるのも、窮状を訴える書き出しとしては効果的かもしれない。 「金、金、金 …… 。現物取引でよければまだなんとかなるのだがなあ」  初めて知ったが、騎士の身代金は金貨で揃えるのが通例なのだそうだ。 「引き渡しの目録に“羊毛を荷馬車一連隊”などとあるのを見たら、隊長どのがまたパンパンに膨れ上がってしまうな」  クスクス笑いながら私はどんどん書き、単語三つを目安にインクを付け直した。何度も書いた内容だから考えなくとも手が動く。子供の頃のお仕置きでも、こんなにたくさんの書き取りはやらされなかった。 「旦那んとこは、羊の放牧をなさるんでしたね」  ネグトレンは壁にもたれ、ペンの往復を見守っている。 「ああ。我が領地で唯一の収入源だ。刈った羊毛を河船に積んで、北の海まで出て、河口のガッコの街で売る」  ネグトレンは、ほうと身を乗り出した。 「ガッコと言や有名な毛織物の産地ですな。そこなら現金があるのでは?」  私は手を休めず、首をすくめた。 「今は時期ではないんだ。買い取りの市は終わって、ガッコの商人は製品を売りに各地へ散っている。街に現金はそうないだろう。羊毛を売ったその市で皆それぞれの買い入れを済ませてしまっただろうし、さてカルサレスの平原だけで、どれほどの額が集まるやら …… 」  私は一気に書き上げ、紙をかざして見直した。 「まあよし」  小卓に投げ出して、吸い取り紙を重ねる。ここで封はしない。真面目に金策に励んでいるか、おかしな企みをめぐらせてはいないか、隊長による検閲があるのだ。  おかげでうちへの手紙の中でも、みみっちい話はできない。“例の櫃(ひつ)の中の、銀のあれを一度調べて”などと、もってまわった言い方をしなければならないのだ。ちなみにこれは“めぼしい銀器はぜんぶ売れ”という意味だが、伝わるだろうか。 ■9  私は新たに白紙を取って、まだどこかに当てがないかと考えた。 「値がつくものなら親でも女房でもという心境だなあ。私にはどっちもないが」  ネグトレンはカルタの札でも引くように、手紙の束から引き抜いては表書きを確かめている。 「旦那、そんなチマチマした借金でなくて、ほら、あのお姫さんにはお頼みにならないんですかい? ベン …… なんとか言った」 「 …… ベレンツバイの姫」  私はむっつりと言った。修道女たちのことで妙に張り合って、私だって浮いた話のひとつくらいあると、つい口を滑らせたのだ。 「彼女はダメだ」 「ダメったって、資産家なんでしょうが。旦那の武具一式を整えてくれたってんだから」 「だー」  私は白紙を押しやった。 「ベレンツバイ家はダメだ。こんなこと、とてもじゃないが頼めない。もちろん領主館が大騒ぎになっているから、事情は伝わっているだろうが」  もごもご言いながら河向こう宛ての手紙も触ってしまった。インクはまだ乾いておらず、吸い取り紙がこすれて、署名のあたりが慌てたようにかすれる。これはいい。  わざと角をはずして折ってはどうか。あれこれ窮状演出に励む私を、ネグトレンが面白そうにのぞいている。 「元をただせばですぜ、旦那がこんなことになったのも、姫にもらった豪華すぎる武具のせいじゃないんですかね」 「違うぞ」  私は折り目をこすりながらネグトレンを睨んだ。 「あれのおかげで私はあの場で討ち死にせずに済んだのだ」  これは本当に感謝している。 「見るからに金が取れそうだというんで、取り囲んだ兵もすぐに剣を控えた」 「まあね」  ネグトレンはうなずいて一歩さがった。がしがしと髪をなでつける。 「だったらなおさら、危ないところを一度助けられてるんだ。最後まで責任を取ってもらやあどうです。お姫さんとはほれ、縁もゆかりもないわけじゃないんでしょう」  さあそこに書けと、ネグトレンが白紙を示す。 「ふん」  私は紙を大きく折った。八つ当たりではない。虜囚らしい折りっぷりを研究しているのだ。  ネグトレンはまた深く腕組みした。 「出陣の支度は、お姫さんの持参金がわりってことだったはずだ。違いますかね」 「言い回しが少し違う。“この程度のことで恩着せがましくはいたしません”」 「ふむ」 「そのあとに、“正式の持参金となれば、もっとご用意できますのよ”だ」  私はどんどん折った。  ネグトレンは天井を見上げてうなっている。 「うーん。つまり婚約を交わすのは、旦那が武勲をあげて帰って来たらの話。武具一式は先行投資と、こういうわけですな」 「お前、彼女とウマが合いそうだな」  意味不明の矩形となり果てた紙を、私は床に叩きつけた。 ■10  ネグトレンはニヤニヤしながら紙くずを拾った。 「娘のやりたい放題を許してるんだ、親もすごい。やり手の一家なんですな」 「ベレンツバイは代々、河の合流点の関門を守る家だ。北の海へ向かう交易船の通行を一手に仕切っている」 「は?」  私は手紙を別紙で丁寧に包んだ。余計な演出はやめだ。  ネグトレンはぽかんとこちらを見ている。 「土地の領主は旦那でしょうが? 通行税やなんかをでっちあげて、旦那が河を牛耳りゃどうです」  包んだ紙を一旦広げた。真ん中に表書きを書くのだ。丁寧にインクの泡を落とし、しゃっと派手な音を立てて、一気に書いた。 「うちの先祖がそんなことを思いつく前に、ベレンツバイの勢力のほうが大きくなってしまったんだ。もう領主の私でも関門に手出しはできない」 「へええ」  ネグトレンは首を振って壁にもたれた。 「格下のお姫さんのほうから旦那を名指しできたってのはそれでだ。家柄はなくとも、ずっと力があるんですな」 「だからって彼女は、領主の妻の座が目当てなんじゃないぞ」  私はぴしりとペンを置いた。ペン枕などないが木目のデコボコで十分だ。 「私なんかと結婚したってベレンツバイの家には何の益もない。彼女にはガッコの港の総督から、もっといい縁談が来ているし」 「いい縁談ね」  ネグトレンのブーツが小さくきしる。 「旦那はそうは思わなかったと」  言葉は相変わらずだが、声にからかう調子がない。同情されているのだ。いつものように揚げ足を取られているほうがずっとよかった。 「誰にとっても利点だらけの政略結婚に勝つために、旦那は中央へ出て、いまいちパッとしない家名にハクをつけて帰る必要があったってわけ」 「ああそうだよ。領主といったってパッとしない。うちは何代か前にダシートに朝貢して、はるばるよく来たなという程度に旗標を授かったことがあるだけなんだ」  ネグトレンは愉快そうにうなった。 「なかなか意気のあるおかたじゃないですかね。自分を妻に欲しけりゃ戦場で名を上げて来いと、好いた男にハッパをかけ、用意の甲冑を着せて送り出す」 「好いた男か」  私は見事に書けた表書きを眺め、のろのろと吸い取り紙をあてた。 「あの姫なら身代金も全額出すぐらいのことは言ってくれると、私はどこかで期待してたんだ」 「ずいぶん自信のおありなことで」 「根拠のない自信だったな」  領主の署名が心残りだ。私に残されたたったひとつの根拠なのだから、わざと汚したりせず、やはりきれいに書くべきだった。 「家令からの返信には、ベレンツバイ家の反応について何も書いてない。きっと書けないくらいのことを言われているんだろう」 「かなりの額だ。親たちを説得するのに時間がかかってるのかも知れませんぜ」  私は肩をすくめて表書きをたたみ、折り目をもう一度押さえた。 「私はもう見切りをつけられたんだ。華々しく戦って中央ユワクで名を売るどころか、迷子になって捕まったのだもの。仕方ないと思うよ」  そらと最後の一通を差し出す。 「やれ、弱気なこって」  ネグトレンは手紙をつまみ上げ、弱気の束にぽすんと重ねた。 ■11 「そいじゃ」  ごそごそと鍵束を探りながら、ネグトレンは扉へ向かった。 「しばらくはこのむさ苦しい顔がお邪魔することもなくなりますんで、せいぜい元気をお出しんなっててくださいよ」 「どこか行くのか。前線か」 「また、こいつを私がご領地まで届けますんで」  ネグトレンは手紙の束で胸元をぱんと叩いた。 「一度行って道を知ってることだし、他の奴が行くより手間がはぶけると、隊長どのに売り込みまして」 「そうなのか。遠くまで何度もご苦労だな」  私が捕虜になって最初に書いた手紙も、このネグトレンが使者として選ばれ、平原まで運んだのだそうだ。 「いやね、別の奴が行ったら、ありゃ大貴族どころじゃねえって、隊長にあらいざらい報告されちまいますからね。あのつつましやかな領主館を見りゃ一目瞭然だ」 「つつましくて悪かったな …… いや、ありがとう。何から何まで助かるよ」  私に火をつけたこともそうだが、上官への報告をごまかしてまで、この男が私をかばってくれるのはなぜだろう。不思議に思って一度訊ねてみたことがあった。 「隊長は“敵方の要人、我が手中にあり”と、本陣に向けてそりゃあもう派手にぶち上げちまってますからね。それがおジャンになったとなりゃ、名誉挽回と焦ってどんな強攻策をひねり出すやら。敵の砦のふたつみっつ、まとめて落としてご覧にいれるなんて言い出しかねない。無茶な戦闘で命をムダにするのは、こちとらご免でさ」  だそうだ。  聞けばイウォリ隊長の歴史狂いは筋金入りで、歴史書に出てくる有名な合戦を実地になぞってみるのが何よりの楽しみなのだとか。  守るべきときに攻めの陣形を取らされたり、意味もなく河のそばへ布陣させられたりで、兵士にとっては迷惑な話である。命令どおりに動いていたのでは自分の命が危ない。身を守るため、ネグトレンと同じく任務に独自の解釈をほどこしている者も少なくはなさそうだ。  そんなことでよく部隊がまとまっていると心配になるが、戦果がなくともうまいこと史実を再現してあれば特別の報酬があるらしい。腰巾着の副官はもとより、各小隊長たちも歴史書を勉強し、ありきたりの作戦でも隊長が好む場面に似て見えるよう、苦労して演出しているのだそうだ。  私もきっと、そんな歴史書のうちのいずれかに出てくる実在の人物になぞらえられてしまっているのだろう。歴史には詳しくないが、さしずめ“塔の貴人”といったところか。 「全部バレて隊長の筋書きを台無しにしたら、私は首をちょん切られるのかな」  私が言うと、ネグトレンはいやいやと声を落とした。 「お天道さまの下で華々しく首を落とされるのは、価値のある捕虜だけでさ。旦那の場合はそう、きっと闇から闇へ …… 」  私がぶるると首をすくめるのを見て、ネグトレンは明らかに楽しんでいた。あわれな囚人をおちょくるのも、牢番の特権のひとつだ。 「旦那」  出て行きかけて、ネグトレンはまたぶらぶらと戻ってきた。 「こないだんときはご家令にまとめて手紙を渡しただけだったが、今度はベレンツバイの様子も見て参りましょうか」 「いや、いい!」  私はぶんぶんと首を振った。 「いいんだ。そうだ。お前余力があるなら、ツオダイのほうまで足を伸ばしてみてくれないか? 大回りになるが」  この砦から西へ向かい、シバムの峻嶺(しゅんれい)を越えたのち、丘陵地を北へだらだらと行けばそこがカルサレス平原だ。北へ道を取らずにそのまま西進すれば、ツオダイの森林地帯にぶつかる。  ネグトレンは首をかしげた。 「ツオダイの役所に、化け物退治の報酬用の金貨が常備してあるかも知れんと?」 「うちからの何かをカタに、しばらくのあいだ借してもらうことができないだろうか。頼むだけ頼んでみてくれ」 「ふうむ、そいつはいい」  私は白紙を取って書き始めた。ネグトレンは剣を抜く真似をし、十字に振り回している。 「ついでに森で化け物を退治して、報酬として金貨をいただいて参りましょう。捕まえますよ。でかいやつを! うあ、手ごわいぞー」  私は憮然としてペンを止めた。書きかけの紙をくしゃくしゃと丸める。 「言ってみただけだから」 「へへ、そう腐らずに」  ネグトレンはなだめるように片手を振った。 「いや、あのホラ吹き野郎がね。ツオダイに化け物退治制度があると言ったのは嘘っぱちだったと、吐いたんでさ」 「そうか」  私はなんだか拍子抜けがして、小卓にへたばってみた。ハハと乾いた笑いがもれる。 「このあいだの罰か? 尼僧長はホラ話の真偽まで追求したのか」 「いや。奴は婚儀の前の潔斎ってのをやったんでさ。これまでついた嘘を人前で洗いざらい撤回することで、魂が浄化されるってね」 「こ、婚儀? のんきだな、この砦は」  ネグトレンはボリ、と頬をかいた。 「兵士の結婚は奨励されてますぜ。養い口が増えたとなりゃ、男は張り切って稼ぎましょうからね」 「しかし、そんなにぎやかな様子はなかったが」  兵舎で祝宴でもあったのならここからでも気づくはずだ。 「ここじゃ特別なにもやりません。当人たちだけが、尼僧長のいる教会本部まで出向いたんでさ。ちょうど今は隊長も近場にいて、許可がもらえたしね」 「ふうん。で、相手は」 「シュゼッタでさ」  私はぽかんとネグトレンを見た。彼もお手上げという仕草だ。 「自分のために異境の苦行を耐え抜いたいじらしさに惚れたんですと」 「いいなあ、幸せで」  ついしみじみと言ってしまったら、ネグトレンが勢いよく吹きだした。私は丸めた書き損じを投げつけた。 「ぶは」  見事に顔の真ん中に当ててやった。ネグトレンははね返ったのを器用に指ではじき、手首を回してつかみ取る。  そのままゲラゲラ笑いながら、礼儀知らずの牢番は独房を出て行った。 ■12  独房の鍵ががちゃがちゃ鳴り、食事の盆がやって来た。 「旦那さま、失礼いたします」  このしゅうしゅう言う西方訛りは、例のホラ吹き男だ。 「お前はええと、ガリーとか言ったな」  キザ野郎は、西方趣味まる出しの洒落のめした身なりをすっかり改め、髪もこざっぱりとまとめている。 「申し訳ございません。肉を焦がしたのはうちのやつでして」  食事の盆を指さしたので、見ると肉はどれも無残なことになっていた。ぱさぱさに煮詰まったのや焦げた部分をそぎ落としたらしいのや、とにかく悲しい有様だ。 「うちのやつって …… ああ。結婚したのだったな、シュゼッタと」 「おお、お耳に入ってしまいましたか。もったいないことでございます」  もったいない言葉などまだ少しもかけてないのだが、ガリーはニコニコと中腰のままこちらを見ている。祝福を期待しているのだ。寄る辺ない虜囚からまだ何か取ろうというのか。畜生。 「おめでとう」 「はっ」  祝福にしてはケチりすぎたが、ガリーははしゃいで踵を鳴らし、私は頑固な肉をナイフで崩しにかかった。 「これはなかなか、手ごわい仕上がりだな」 「お取り替え申し上げようにも、保存肉の割り当ては一日これだけと決まっておりまして …… 」  直立のまま、ガリーも不安げに肉の頑張りを見守っている。 「女房どのに、ぼんやりするのも程々にするよう伝えてくれ」 「は」  また踵を鳴らしたガリーは、へにゃりと笑みくずれている。 「きつく申しておきます。うちのは、しゃんとしていればとても旨いものを作るのです。ガサツな私なぞとは違って味付けがこまやかと言いますか、繊細と言いますか」 「分かった分かった。明日はぜひそれを頼む」  こんな幸せボケを量産することになるのだ、やはり戦地での兵士の結婚は禁じるべきだと思う。 「そうだ、旦那さま。クエイサ尼僧長のご都合がよろしいとのことでしたので、数日中にご面会がかないますよ」 「面会?」  ガリーはこくりとうなずいた。胸に下げているらしいお守りを、服の上から探っている。 「奇縁にて遠方よりはるばるお越しになり、我が伝道教会の教義に触れられた旦那さまが、改宗を決意されたことは、このうえなく喜ばしいことだとおっしゃっておいででした」 「改宗 …… かいしゅう」  西方訛りを聞き違えたか。私は眉をひそめて繰り返した。ガリーも首をかしげる。 「ネグトレンから、そのように聞きましたが? 近々、旧来の主君に不忠をなすことになりそうなので、新たな信仰をよすがに、神のご加護を願われたいとか」 「ネグトレンが言ったか。そうか」  確かに寝返りのポーズとして、土地の宗派への改宗はいい時間かせぎになりそうだ。 「うん。改宗するぞ。伝道教会派に」 ■13  数日後、迷える囚人の魂を救うべく、高潔の尼僧が馬車でシオレンカ砦に乗りつけた。  伝道教会派は、北方ユワクのあらゆる地域に信徒を持つという。富裕層からの寄進も多く、権威すじへの発言力の大きさは、そのおかげもあるようだ。  プノールンプルン王が南ユワクへと進撃を開始するや、糧食の調達や下働きなどの労働力として、伝道教会はみずから進んで信徒を貸し出した。そのうえで交換条件を提示したのである。騎士や兵士たちが規律のもとに動くよう軍中枢に働きかけ、戦乱には付きものの略奪や、地元民の財産の徴用をさせずにいる。  その元締めがクエイサ尼僧長である。さぞかし威風堂々とした、押し出しいかめしい人物なのだろうと思いきや、装飾より実用面が勝つ頑丈な馬車から降り立ったのは、丸っこい小母(おば)さんだった。出迎えた隊長も副官もこのふっくらした尼僧が差し出す手を押しいただき、滑稽なほどへりくだっている。  塔の階段を登るのは足にこたえると言うので私のほうが降りて行き、我々は塔の最下部、牢番が使う詰め所で対面した。 「ま、聖キエトさま …… 」  会うなりまず拝まれてしまった。 「姉妹たちの申していたとおりですわ」 「姉妹たち …… 、修道女たちのことですね」 「ええ」  クエイサ尼僧長は焼きたての丸パンのような合掌越しにうなずいた。 「信徒は皆、兄弟姉妹です。私にとって娘や孫のようであってもね」 「確か聖キエトも若かった …… ええ、殉教の騎士でしたかな」  隊長が首をかしげながら、尼僧長の椅子を整える。  尼僧長はハンという息だけで返事をし、僧服の裾をさばいて腰かけた。 「聖キエトさまは平民の少年ですよ。包囲にあった街で信仰を守り、人々を最期まで力づけたのです」 「でござった」 「あなたは戦記ものしか勉強なさらないから」  ひとにらみで王侯も武装を解くというだけあって、雅量ただよう物腰には確かに人を従わせる力があるようだ。  私もかしこまって席に着いた。 「聖キエトは、最近の戦で亡くなったかたですか?」  にわか信者の私もつい生徒めいた態度になってしまう。  真面目な発心をよしとしてか、尼僧長は真っ直ぐ私に向き合った。 「いいえ、もう百年も昔の聖人ですわ」 「長く尊敬されている人なのですね」 「ま、このあたりでは過去何百年にも渡って、新興王とそれに対する南からの鎮圧部隊が、どこかしらで戦っておりましてね」  非業の死をとげた聖人には、事欠かないというわけだ。 「和睦になればなったで、職にあぶれた傭兵たちが近隣を荒らすのです。この地は静まることがないのですわ。やまぬ騒乱はこの地の歴史であり、進行中の現実です。今度のは長引いておりますの」 「ふむ。南ユワクの王国が油断を見せるたびに、北方の辺境貴族がスキありと国を興(おこ)すのだから、迷惑ですよね」 「ごほん、うぉほん」  咳き込んだのはイウォリ隊長だ。プノールンプルンの忠臣がいるのを忘れていたのはまずかったが、尼僧長どのは構わずうなずいている。 「争いの風は平原にまで吹き伝わっていますのね。そうしてシバムの向こうから、はるばるあなたがおいでになった」  尼僧長は静かに言って、僧服の胸元から、手のひらに収まるくらい小さな二つ折り聖画を取り出した。パチリと開いたのを受け取ると、 「これは、うーん」  図像には確かに私とそっくりな断髪の、黒髪の少年が描かれていて、健気な様子で民衆に手を差し伸べているのだが、表情はいささか感情過多に表現されており、唇を歪ませ、眉尻は情けなく下がり、ずばり言ってメソメソと泣いているのだ。 「確かに似ておられる。卿も時おりこんなお顔をされますな」  隊長がうふふと笑うと、副官以下、儀式に立ち会いに来ていた兵士たちも、どっと吹き出した。 「女たちが騒ぐのも、もっともな」 「聖キエトはやはり女子供に人気ですなあ」 「私などは、聖ニシマの壮烈な殉教に憧れますよ」 「それがしは聖グエリンデのような女性のためなら命も捨てる」  信徒たちは口々に言い、それぞれに懐中から携帯聖画を取り出してみせた。  尼僧長はいちいち額に押しいただき、これは大昔の人物だとか、この地の民間伝承から取った逸話だとか解説を加えた。 「いずれも聖人の列に加わった時期はまちまちですけれどね」 「そうですか」  泣き虫の子供に似ていると言われて私はむっとしており、そっけない相づちになった。  なるほど伝道教会は、民衆の好みに合わせた聖人を、各種取り揃えているというわけか。信徒も集まるはず、商売上手で結構だ。にしても、手渡されたままになっているキエト少年の置き場をどうしよう。  宗教的因縁に燃えた尼僧長の目は、今にも「それはあなたがお持ちなさいな」と言い出しそうなのだ。自分そっくりの美麗肖像を持ち歩くというのはあまりぞっとしない。  とはいえ情感豊かな彩色画は久しぶりの目の保養ではあった。女ウケとはこういうことかと、私が興味ぶかく少年の泣き顔を検分しているあいだも、尼僧長の静かな声は続いた。 「聖人譚として人々の記憶に残るような、あらゆる悲劇がここでは繰り返されてきたのです。いつの時代も暴力にさらされてきたのは、そのキエトさまのような子供や、女たちでした。わたくしの家は、かつてそのはた迷惑な勃興貴族のひとつでした」  驚いて見つめ返していると、尼僧長は私の手から聖画を取り、丸い両手でそっと包んだ。 「南からの支配に反旗を翻したわたくしの祖父は、反乱に失敗して討ち死にしました。落ちのびた父は、守りとおした財産のすべてを投げ打ち、北ユワクの各地に、尼僧院を建てたのです」 「 …… そうだったのですか」  商売上手と言ったのはぜひ撤回したい。だが口にしていない言葉を撤回することはできない。私はただ、神妙に小さくなった。 ■14 「さて、儀式を始めましょうか」  尼僧長が立ち上がったので、私も立った。  兵士たちが椅子を脇にやり、詰め所の机を寄せて来ると、尼僧長のお供の男たちが集まって、粗い木の机にしなやかな布を広げ、持参したさまざまの品を並べ始める。 「聖典をお持ち?」 「いいえ」  私は首を振った。捕われた際に、所持品はみな没収されているのだ。 「クエイサさま、こちらを」  副官が粗末な冊子を差し出している。 「卿のご乗馬の鞍下に、小さいのが一冊ございました」 「おや」  鞍の物入れに、そんなものが入っていたとは知らなかった。 「きっと家のものが、お守り代わりにと入れてくれたのだな。ちっとも効かなかったが」 「ふざけてはなりません」  聖印を切りながら、尼僧長がおごそかにたしなめた。すでに儀式ばった身振りが始まっている。助祭らしき男に合図を送り、私の聖典を高く差し上げた。 「ここに、あなたのこれまでの信仰がある。これを捨てることを、承諾なさるか?」  私はこくりとうなずいた。もともと熱心な信者ではなかった。未練はない。  目の前に伝道教会の聖典が広げられ、助祭がそっと介助して、私の読むべき一文を指さした。 「はい、何もかも捨てます。しかし、私が今この場に投げ出せるものと言えば、我がうつろな体を満たす、うちひしがれた魂と、あとは粗末な持ち物ばかりでございます」 「それでよい」  尼僧長はうなずいて、助手たちに短く合図した。 「お召し物をいただけ」  一糸まとわぬ姿にされるのかと慌てたが、厚く重ね着していた長衣の一枚と、靴を奪われただけで済んだ。 「あなたは一旦カルサレス卿ではなくなります。ご自分を空(むな)しくして魂まで差し出し、うつろな体だけになるのです」  儀式ぶりを消した声で尼僧長が説明するあいだも、私は裸足で立ち尽くしていた。 「今のあなたは貴族ですらありません。床に膝を付いて」  言われるまま、硬い床に膝立ちになる。他の者は皆立っているので、私はこの部屋の誰よりも低い身分となった。  また、聖典の一頁が示された。 「私は伝道教会の高き御堂におすがりします。生きている限り、またそののちの世も、神の深き御ふところに庇護されることを望みます。どうか私が得たこの世の財貨の、すべてをお取りください」  ギョッとさせられる一文だが、次の行を見れば、尼僧長のセリフがこう続く。 「いや、それには及ばない。差し出すのはあなたが持つこの世の財貨の十分の一でよい」  最後は金の話である。しかし手持ちの額から割り出せばいいわけだから、こちらのサイフ事情もおかまいなしの身代金請求よりは、大分良心的なほうだ。カルサレス領主館の資産目録の十分の一が、羊何頭ぶんにあたるかを知ったら、尼僧長はどんな顔をするだろう。  ジャッという音がして、見ると助手が私の長衣を片方の袖だけ引き裂いていた。靴も止め具の部分を大きく引きちぎられている。面積か長さか、どういう基準による十分の一か知らないが、定規で測ったものらしい。 「では、持ち物の十分の九とともに、あなたの魂をお返ししよう。嘘いつわりのない信仰の吐露により、あなたの魂は清められた」  助手たちが私の衣類を尼僧長に手渡した。あの中に私の魂も畳んであるということか。 「清らかになった魂は、もはや物欲によって堕落しない。生きていくに足りるだけの持ち物は、あなたが持っているがよい」  尼僧長が、片袖になった私の魂を広げ、肩にかけようと差し出しながら歩み寄る。 「カルサレス卿、伝道教会は喜んであなたを …… 」  金を払うことを承諾したからか、私は貴族に戻れたらしく、立っていた者たちが一斉に膝を折り、私への礼を取り始めた。そこへ ――― 「その男に、貴族の礼を取るのはよしたがいい」  無遠慮な声がして、皆一斉に振り返った。 「ネグトレン、お前か」  詰め所の窓に片肘をついていたネグトレンは、ひらりと窓枠を超え、室内に立った。 ■15 「平原より戻ったか、ネグトレン。一体何事だ。儀式の最中だぞ」  ネグトレンはつかつかと隊長に歩み寄った。 「隊長どの。その男はカルサレス卿ではありません」 「なんだと?」  隊長の隣に立ち、ネグトレンは私のほうを顎でしゃくった。 「あの男、どうも物の食い方がだらしないし、そこらにごみくずを投げ捨てるし、貴族にしては品のない野郎だなと、以前からいぶかっておりましたんで。カルサレスの地へふたたび赴き、卿ご自身のことを詳しく聞き込みまして、はっきりしました」  歯の奥から絞り出すように言う。 「あれは偽者だ」 「偽者 …… 」 「大方、カルサレス一行がシバムの山越えのために雇った土地の男でしょう」 「いや、私はその道案内と山中ではぐれて、それで迷子に」  ジタバタと立ち上がろうとする私に、はたき付けるような一喝。 「黙れ盗人!」 「盗人?」  ネグトレンは兵士たちの囲みに沿ってぐるりと歩き、祭壇の前で仁王立ちになった。 「そうだ盗人だ。お前は我が隊に捕われたとき、山中にひとりでいたと言ったな。奪った甲冑を着て、ホクホクと盗人のねぐらに帰るところだったのだ」  注釈よろしく隊長を振り返る。 「帰り道でトンマにも捕まっちまって、途方に暮れたことでしょうよ。金がないだの寝返るだのと時間かせぎをして、逃げ出す機会をうかがっていたんでさ」  居並ぶ兵士たちも顔を見合わせた。 「そういえば、こいつは自分の聖典がどこにしまってあるかも知らなかったぞ」 「鞍の下まで探るヒマがなかったんだな」 「女たちも、塔の旦那はお行儀が悪いって言ってたぞ。窓から木の実の食べかすが落ちてきたこともあるって」 「なんだ、俺たちゃ盗人にへいこらして、食事を運んでやっていたのか」 「改宗するなんぞと言ったのも、時間かせぎか?」  私を見下ろすたくさんの顔が、ぐっと獰猛になる。 「いやネグトレン、お前が言ったぞ、私に、改宗、お前が …… 」  力が入らない。話し方まで支離滅裂になってきた。ネグトレンはフンと鼻で笑った。 「そう。隊長どの、こやつに改宗を勧めたのは私でさ」 「お前が?」 「なんだか誰からも見放されちまって、あんまり気の毒になったもんでね。だが素直に改宗に同意したのも、独房から出るための方便に決まってる」  ネグトレンは仲間を見回して首を振った。 「油断だな。クエイサさまをお迎えするために、誰もみんな剣を置いてきちまった」  兵士たちのあいだに緊張が走った。私が怪力を発揮して彼らを残らずなぎ倒し、遁走し去るなどということがあり得る話かどうか、ちょっと考えれば分かりそうなものだが、丸腰の不意をつかれた武人にそんな余裕はないらしい。じり、と輪が縮まる。  円陣の中央、私の正面にネグトレンがいた。 「お生憎だな盗人。剣を持った奴が、ここにいるぜ」  そう言ってネグトレンはスラリと抜き身をかざした。 ■16  白刃がまっすぐ狙いをさだめる。 「お気の毒なカルサレス卿。山に不案内だったせいで、ご不運にも薄汚い強盗を雇ってしまわれたのだ」  私は膝立ちであとずさった。 「いやネグトレン」 「だがネグトレン」  私に負けず劣らずよろめいているのは隊長だ。 「あの男は、領地内各所の友人知人へ手紙を大量に書いていたぞ。借金の」 「あんなもの」  剣先をぴたりと据えたまま、ネグトレンはとほ、と息を吐いた。 「シバムのあっち側にちょっと詳しい者なら、誰でも知ってる氏族名ばかりでさ。中身は出鱈目で、現にカルサレス本家の家令どのは手紙の内容に首をひねっておられて、それで支払いの承諾をしかねていたというんで。お屋敷のことを知らぬ者が書いた手紙であれば道理」 「なんと、大胆な」 「とにかくシバムのこっち側にいる限り、少々の食い違いは押し切ればなんとかなるんだ。遠くから来た旅人ほど、嘘が大きいと言うじゃないか」 「うーむ」  一同見事に納得し、ネグトレンはさらに続けた。 「大体貴族の当主さまが、あんな事務的な手紙をスラスラ書けるというのもおかしな話だ。違いますかね?」 「確かに」 「高貴なかたには専門の祐筆(ゆうひつ)がいて、自らペンを取るのは最後のサインだけだ」  我が意を得たりとばかり、ネグトレンはクシャクシャの紙きれを取り出した。 「これはこやつの書き損じですがね。単語の終わりがすべて右上がりにはねているでしょう」  確かにそれは私の癖だ。  紙切れはうなずき合う兵士たちの手から、隊長に渡る。 「む、俺が手紙を検閲したときもこうだった。粒の揃った字でとても読みやすかったぞ」 「シバムの山あいの村でこれを村人に見せましたんでさ。そうしたら、あのあたりに回ってくる行商人なんかは、帳簿をつける際にこんな書きようをするって話が出ましてね」  どよめきが走る。  ネグトレンは剣先で空中に文字を書き、最後のところを右にピンとはねた。 「すべて右上がり。細かい商品名の羅列も、スッキリ読みやすいように」 「こやつ、もとは行商人か」 「山道にも詳しいわけだ」 「あ …… 待っ …… 」  私は必死にあえいでいた。息が漏れて言葉にならないのだ。ガリーの西方訛りを笑えない。 「待って …… くれ、聞いて」 「貴様のホラ話は聞き飽きた。観念するんだな」  ネグトレンの瞳が冷たく光った。 ■17  ネグトレンに表情がない。  軽薄な顔だちが剣をかまえてこうも冷酷に見えるとは知らなかった。 「ハナから人をたばかってやがったな。気の毒な貴族さまと思って親切にしてやったのに …… 」  私は這いずって逃げた。  即席の祭壇にすがる。と思ったら布の下からのぞくのは頑丈な婦人靴だった。 「す、すいません」  裾をめくられても動じない二本の足はガタつく机より安定がよく、私が僧服の後ろにうずくまったので、ネグトレンは舌打ちして剣先をはずした。 「そんな …… 大貴族が、私の手柄が」  消え入るような声は隊長どのだ。聖キエトにも負けない泣きべそ顔が、私をのぞきこんだ。 「どうなのだ。お前は、カルサレス卿なのか、行商人なのか?」  人が言葉を発せられないほど混乱しているときに、二種類の質問を同時にぶつけないでほしい。私は末尾の質問に反応してぶるぶると首を横に振り、いや問われた順番から言って先に肯定だと思い直し、コクコクと縦に振った。  隊長はもどかしげに身をよじった。 「どっちなのだ。書き取りの上手い貴族か、すりかわった偽者か。おお …… 本物の卿をお前は、殺してしまったのか?」  自分で言った言葉にふらりとよろける。 「隊長」  巨体をかばって進み出たネグトレンは、首の縦横が定まらない私に吠えかかった。 「答えろ! 卿を殺したのか!」  ヒッと声が出て飛び上がった私は、尼僧長の頼もしい背中にしっかり張り付いた。 「ご遺体をどこへ隠した! それともどこかへ閉じ込めてきただけか!」  ぶるぶる、コクコク。 「山のどっちがわだ! 谷か! 峰か!」  ぶるぶる、コクコク。 「とにかくそこを離れろ! クエイサさまの背後から、こちらへ出て来いというのだ!」  こっちへ来いと剣を振り回して怒鳴る奴がもしいたら、それはもう全力で出て行かないに限る。私はいよいよ小柄な背中にしがみついた。 「聖職者の背後は聖域と同じだ。そんなところへ逃げ込んで罪を免れようとは、なんと卑怯な奴」 「あの、ちょっと」  悲憤と罵倒を吐き出し続けるネグトレンに終始押しのけられているのは、ひょろひょろの副官だ。首を突っ込みたいが馬体が軽く、当たり負けしている。 「見えない …… どうなってます、隊長」 「どうって …… クエイサどの、どうかそやつをこちらへ引き渡してはいただけまいか」  イウォリ隊長は泣きべそ顔で両手を広げたが、懇願の表情は聖キエトのように可愛らしくはなかった。 「まだ入信の儀式の途中です。わたくしはこのかたの魂を預けられたままですから」 「ふぬう、ではさっさと片付けて魂でも何でも、あ …… 」  隊長が息を飲む。あたりの空気が一気に張り詰めた。 「今、何と言われた。兄弟スデンデンテ」   ――― 尼僧どのこそ、何と言われた。デンデン? 「は、これは失礼な物言いを …… 」  隊長が縮こまっている。今の珍妙な擬音が、イウォリ隊長の名だというのか。ダメだ。事態を把握するまでは、笑っちゃダメだ。私はしがみつく手に力を込めた。 「ご安心なさい」  私の手に、尼僧長の暖かい手が重ねられた。 「魂を宙ぶらりんにしたまま、あなたを引き渡しはいたしませんよ」 「クエイサどの! 改宗などこやつの方便ですぞ!」 「控えなさい」  鞭のような声がその場を打った。尼僧長は、居並ぶ武人たちをにらみ据えた。 「すべての儀式を預かる身として、教会にすがると言ったこのかたの言葉を、むげにはできません」  兵士たちは直立して聞いている。 「このかたが罪びとであるのなら、わたくしはその犯した罪の告白を聞き、試練を与えた上で、浄化された魂をこのかたの体に返さねばなりません。儀式が肝心なところへ差しかかった折もおり、このような申し立てがなされた以上、そうするより他にない」  そこまで言った声がわずかに震える。私は僧服の背中にすがりながら、そっと表情をうかがった。尼僧長の目は、ひたとネグトレンに据えられていた。 「 ――― いいように嵌(は)めおったな、覚えておりゃれ」  慈愛の尼僧が、かみ締めた歯の奥でつぶやくのを、背中にくっついていた私だけが聞いてしまった。 ■18  ネグトレンはじりっと回り込んだ。 「ではそこで、クエイサさまに向かって罪を認めろ。盗人の人殺しめ。でないと …… 」  息を詰め、片手突きを大きく引いてかまえる。 「およしなさい!」  尼僧長が剣を迎えるように立ち、ネグトレンがひるんだ。にらみ合う二人。  ネグトレンが先にがくりと脱力した。 「ああ、確かに魂のないうつろな体を殺すのは大罪だ。こんな奴のせいで地獄に落ちるのはご免だ。どうすれば …… 」  見ていると、苦悩のネグトレンが調子をあげていくにつれ、尼僧長の目つきはますます暗く、険しくなった。こんな物騒な目つきの尼僧を他に知らない。のどの奥で何か、小さなうなり声まであげている。 「教義をどこまでもてあそべば ――― 許さぬ …… ネグトレーン」  怖い。  名を呼ばれて返事をすると呪いをかけられる炉辺がたりがあったが、伝道教会は民間呪術も取り入れているのだろうか。  一方、イウォリ隊長にかけられた呪いを、副官が必死に解こうとしている。 「隊長、しっかりしてください」 「しー、クエイサさまに叱られたのだ、いましばらくシュンとしてよう」 「ひとまずあたりを調べませんか。本物のカルサレス卿のご遺体を見つけないことには何の証拠も」 「そうだな。シバムの山越え道をくまなく探すか」 「隊長どの」  ネグトレンは剣を収め、大股で部屋を横切った。詰め所の扉に向かう。 「証拠というなら、ここに本物のカルサレス卿を知る者を連れ参っております」  扉が勢いよく開けられた。  中庭には砦じゅうの人々が集まっていた。わあっとどよめきが起こる。 「若さま!」  砦の連中を押しのけて走り出たのは、旅装の一団だ。  男も女も若者も年寄りもいて、皆、ふわふわした白い髪をうなじのあたりで束ねている。 「こ、これは」 「若のお召し物を着ているが」 「こやつ、真っ赤な偽物ですぞ!」  口々に言いながら一斉になだれ込もうとするのを、ネグトレンが押しとどめた。 「カルサレスのかたがた、それは確かなのですね?」 「そうですとも」  私に向かって憎悪を込めた指がさしつけられる。 「こやつの真っ黒い髪がなによりの証拠」 「若の髪は私どもと同じ、日に透けるようなプラチナブロンドでございますわ!」  そうだそうだと他の者も声を合わせ、黒い悪魔め、地獄へ落ちろと汚い野次が飛び交った。 「下劣な盗人め」 「高価な武具に目がくらんで、あのお優しい若さまを …… 」  白髪の一群は、この世の終わりのように身もだえしている。 「古きカーサル大王の怒りに触れるがよい!」 「我ら白金の髪の一族は、古きカーサル大王の誇り高き末裔」 「あー若さまああ …… 」  何が何だか分からない。  しかしはっきり分かることがひとつだけあった。私は奥歯をかみしめながら、ひたすら自分に言い聞かせた。  ―― 笑っちゃダメだ。笑っちゃダメだ。耐えろ! ■19  私はなんとか吹き出さず、後の数刻を乗り切った。ざっと以下のような次第だ。 (隊)=隊長 :「やはり、これは別人か。ああ」 (副)=副官 :「これだけの証人がいれば、確かでございましょう。あああ」 (隊)     :「泣き言を言っているヒマはない、伝令だ。急ぎ本陣に報告を」 (ネ)=ネグトレン :「あのう、伝令なぞに任せていいんでしょうかね?」 (隊)(副) :「何がだ」 (ネ) :「つまるところ、これは由緒ある大貴族の殺害ですよね? これで一番得をするのは誰かと考えると、当主のいなくなったカルサレス所領から、何食わぬ顔で財産を接収できる、主君の …… 」 (副) :「な、なんと! これはすべてダシートの陰謀だというのか!」 (ネ) :「昔の権力者同士の逸話なんかであるでしょう。邪魔になった自軍の武将を、山道にまぎれて始末させる …… 歴史にはうといのですが」 (隊) :「むう、“テネイラ宮廷史”、暗黒時代の章だ。だとすればこの男は、ダシートに雇われた暗殺者ということになるぞ」 (ネ) :「なんですって? ああ、頭がこんがらがって参りました」 (副) :「無理もない。隊長、こんな高度な読みを、伝令ごときがきちんと王にお伝えできるかどうか」 (隊) :「では報告は詳しく書状にしたためて、“テネイラ宮廷史”からの引用も添えて」 (ネ) :「いや、知能の足りない武人たちには逆効果ですよ。字数が多ければ多いほど、理解できないことに腹を立てる」 (副) :「そうそう。王の側近たちは自分たちの学のないのをひがんで、日ごろから隊長どのの博識をさげすんでいるふしがありますぞ」 (ネ) :「王のご決断が素早けりゃあ、ダシートが接収するつもりでいるカルサレスの富を、横からいただくことだってできるかも知れないのになあ …… はあふ」 (副) :「隊長! ここはおん自ら参じて」 (隊) :「ふむ。陰謀の絵解きができるのは、まあ俺ぐらいのものだろうな」 (副) :「碩学の武人に、いよいよ栄達の道がひらけるのですな!」 (ネ) :「そのあいだに我々が、あの野郎に泥を吐かせておきます。ええ、魂抜きのうつろな体も尋問の用には足りましょう」 (隊) :「じゃ、そっちは頼んだぞ」 (副) :「お供します! イウォリ隊長のご立身に立ち合いたい者は続け!」   ――― 隊長・副官以下、取り巻き数人が退場。  今はすっかり日が傾いていた。私は塔の窓辺ではなく、兵舎の石段にしゃがんでいた。 「旦那」  かたわらにはネグトレンが立っていて、いつものようにだらしなく壁にもたれている。 「そんな石段で、お寒かないんですかね?」 「地べたが嬉しいんだ」  ぷっと笑う声が聞こえたが、構いはしない。優しいそよ風が吹いていく。独房のすきま風とは違って心地よい。  塔からは見えなかった一角に、木の柵で囲んだ菜園があった。少し離れた向こうには厩舎。私は平原の羊のように鼻先を天に向け、土と草の香りを胸いっぱい吸い込んだ。  あかね色の中庭に首を巡らせる。と、こちらへ歩いて来るすらりとした姿が見えた。 「こちらでしたの」  ベレンツバイの姫は、長い黒髪をばっさり切り落としていた。背の半ばあたりまでになった髪を平民の少女のようにきりりと結わえている。  その痛々しい姿を見るにつけ、私の胸はきゅっと締めつけられた。以前の彼女は、太く編んだ髪を頭の周りにめぐらせ、漆黒の冠を戴いているように見えたものだ。 「姫、お目の痛みはどうです」  私は立ち上がって姫を迎えた。ネグトレンが静かに数歩さがった。 「もうすっかり平気ですわ」  若さま若さまと皆でおいおい声を合わせたあの涙は、演技ではなかったのだそうだ。  紡ぐ前の羊毛をよく梳(す)きこんだ手作りのかつらは、淡く黄味がかった白い色をしている。眉やまつ毛も同じ色でなければおかしいと、こだわり者が言い出したのが砦に入る直前。そこで鞍ずれ防止の白粉を皆の顔にはたきまくったところ、涙が出て仕方なかったのだという。 「自慢の口ひげをそり落とすのが嫌で、粉で固めた者たちはもっと大変だったようですの。泣けば泣くほど鼻水が粉を流して」  こう、二本の筋が、とあえぎ始めるともう止まらない。この人がこんなに笑う人だとは知らなかった。  笑い声が中庭に響き、夕景にキラキラと光が増すようだ。 「あなたは、自慢の髪を惜しまなかったね」  きつく編んでかつらの中に押し込んだが隠しきれず、頭が不自然にデコボコして見えたので、少しでも疑いを招かないよう切ったというのだ。  ベレンツバイの姫は照れくさそうに笑いをおさめ、束ねた髪に指をすべらせた。 ■20  話を戻そう。隊長たちが慌しく出発した、その後のことだ。  馬群が土煙とともに彼方へと遠ざかり、砦はなんとも気持ちの悪い静寂に包まれた。  泣きわめく声もいつの間にか止んでいる。  ネグトレンがぶらぶらと歩いて、白髪の人々に近づいた。白いかつらに手を伸ばし …… いきなりすぽんと抜いた。  兵士たちが絶句した次の瞬間、カルサレス一行が揃ってかつらをはぎ取った。あらわになったのはいずれも私と同じまっすぐで硬い、漆黒の髪。 「若さま!」 「若! お迎えに上がりましたー!」  芝居気たっぷりの種明かしである。劇的展開のごり押しとばかりわーわー騒ぎ続けていると、サクラにつられた兵士たちも喝采を始め、まさに三文芝居の大団円。  もちろん職務を忠実に守り、私たちを拘束しようとする者もいるにはいた。  中庭はにわかに秩序を失い、武装集団同士、あわや戦闘がはじまりかけたとき。 「双方控えよ!」  クエイサ尼僧長の声があたりを打った。 「ただちに剣を収めてくれた者を、教会の衛士として雇う!」  つまり、プノ−ルンプルン兵をやめても、教会が給料を払うと呼びかけたのだ。 「どうしても従えない者は、カルサレス側がわたくしクエイサを人質に取ったため、やむなく武装解除されたとしてほしい。どうか争うな」  兵士たちにとってはどちらにつくかを選ぶより、尼僧長の前で血を流すことにためらいがあった。  尼僧長はさらにかき口説いた。軍規にそむいた上、重要人物と判明した捕虜を逃がしてしまうことになる。懲罰や減給はあるだろうが、自分からも王に働きかけて身分は保証されるようにする。なにも心配いらない。残りたければ安心して残ればよい。  こうして尼僧長が言葉を連ねるほど、プノールンプルンに残ることへの魅力は色あせていったから不思議だ。兵士たちは互いに顔を見合わせ、ネグトレンいわく、“寝返ったほうがいっそ面白いんじゃねえか”という気分が漂い ―――  結局、誰も剣を取らなかった。 「忠誠だ軍規だ小うるさいのが、みんな隊長にくっついて行っちまったせいもありましょうがね。とにかく連中は、面白けりゃそれでいい」  そんなわけで目下のところ、シオレンカ砦は私を自由にしたばかりでなく、なんとなく私の支配下に入ったような感じでもあるのだ。兵士も教会信徒もカルサレスも一緒になって、夕餉の支度にかかっていた。  あっという間の出来事だった。 ■21  日が傾く。  長い影が中庭に落ち、私たちを半ば覆った。  私は姫と連れ立って夕焼けの中へ出た。  寄り添って手でも握りたいところだが、私は塔に移ってからというもの、衣は着たっきり、小さな桶の湯でなんとかしのいでいた体だ。香水でもあればいいが、ここにあるのは馬具を磨く香油ぐらいだろう。  姫のほうも旅の汚れを気にするだろうし、私たちは慎ましく三歩ほど離れ、菜園の傍で並んだ。 「シバムの山は壮麗でしたわね」  なんとなくため息をつき、私たちは西の方を見やった。  輝く空を切り取って、高い城壁よりもさらに高く、影絵のような山脈が横たわる。いま日が落ちていこうとしているのは比較的低い峰で、そこから少しはずれたあたりにそびえ立つのが大シバムの最高峰だ。名は何というか知らない。 「デセラート峰を超えた時には感動しましたわ」  彼女には山岳案内を聞く余裕があったのだ。私にはいい思い出などなかった。 「私は悲惨でしたよ。案内の男とはぐれてからは、ぐるぐる迷いながらの山道だった。歩けど歩けど新たな谷にさえぎられて」 「いったん迷うと山は恐ろしいところですのね。のんびり景色を楽しんでいてはいけなかったかしら」 「あなたの場合は、案内人がよかったのですよ」  私は中庭を振り返った。やはりネグトレンはそこに控えていた。目が合うと、ただひょいと肩をすくめる。 「従者たちはどうなったろう。捕まったって私のように、身代金目当てに命を助けられたりはしないだろうな。かわいそうに」 「ああ、従者がた。見つけましたぜ」  ネグトレンはぶらぶらとこっちへやって来る。 「どこでだ? カルサレスの皆と一緒ではなかったようだが …… やはり死んで」 「いやいや。行商人たちのツテをたどったんでさ。うんと北のほうで行き倒れてたそうで、まだ村人の家で手当てを受けてるらしいが、なんとか命は助かってる」 「よかった」  私は大きく息をついた。 「その村には充分に礼をせねば。しかしここからまだ北へ向かっていたのか。目指したエンデシュ原は、聞けばずっと南なのに」  ネグトレンがフンとうなずく。 「山を知らないおかたは降りよう降りようとするから迷うんで。シバムは特に、低い峰ほど、越えても超えても別の谷が折り重なっている」  指でトコトコと山道を下る仕草をした。 「降りやすい道を選ぶほど、目指したのとは違うほうへ違うほうへ連れてかれちまうってわけで」 「うーん」 「従者がたは、旦那のために必死に道を探していたんでしょう。どんどん迷ってしまったんでさ」 「じっとしていた私は、かえって運がよかったのだなあ」 「若。敵兵に見つかったのが、運がいいなんて」 「あ、これは」  私は頭を下げて小さくなった。 「ええと、カルサレスの皆には、本当に心配をかけて …… 」 「はい、心配いたしました」  きりりと両手を腰に当て、彼女のこういうところが、実は苦手だ。  立派に家督を継いだ私が、地元でいまだに“若”呼ばわりを卒業できないでいるのも、有力者ベレンツバイ家の姫が、この幼いころからの呼び方を、いつまでたっても変えてくれないせいではなかろうか。  まあ身の丈以上の敬称で持ち上げられる怖さは身に染みたし、若造なのも本当だ。 ■22  そうだ。私は私でしかない。  そのことがなぜか今胸に迫った。 「おかしなもので、私は」  照れくさくて鼻先をポリポリかいた。 「山で私をまいた、道案内の男にさえ感謝したい気持ちでいるんです。彼を雇った村に行けば、また会えるだろうか」 「いやいや」  ネグトレンが呆れている。 「故郷の村になんか戻っちゃいませんよ。旦那から巻き上げた金を持って、とっくに都会へ出てったはずだ」 「そうか」  私は彼方の雲を目でたどり、どこか分からない空の下にいる田舎者を思った。 「彼も幸運に恵まれるといいなあ。私のように」 「若ったらどこまでもお人がいいんだから」  でもと言って、姫はふわりと頬を押さえた。 「若のそういうところを、領民は皆お慕いしているのですわ」  私の胸を、また何かがきゅっと締めつける。 「頼りない領主で申し訳ない、何かにつけ」 「“これぐらいのことで、恩着せがましくはいたしません”」  私はこれまでずっと、頼りないのを褒め言葉のように言われて来た。領民は私の墓の前で“あのお優しい若さま”と泣いてくれるだろう。キエト少年のように、後世に徳を称えられることだってあるだろう。だがそれは皆、なにもかも終わった後だ。たおやかな姫が私たちだけに通じる冗談を言って笑った奇跡のような瞬間も、ほら、あっという間に過ぎ去った。  今さら気づいたが、私はまだものすごくこの世に未練があった。 「またお会いできて本当に嬉しい、姫」  塔で過ごした日々は、思い返すにつけ、なんと言おう、他人ごとのように平穏であった。身代金は高額で、頼みのベレンツバイからは反応がなく、家には金がない。手詰まりの袋小路。  初めてシバムのこちらへ出て右も左も分からぬ私は、めまぐるしい成り行きに呆然とするほかなく、やけっぱちに泰然自若としていた。 「もう二度とお目にかかれないと思っていました …… ガッコへの嫁入り支度を始められたんだと」  そうなれば、姫と私を隔てるものは河だけではない、かの大シバム。平原にいた頃の比ではないのだ。思い悩むのをやめて見わたせば、塔では日々そこそこに旨い食事が供され、窓の下をぴちぴちした娘たちが行き交う。虜囚だの不遇だのと、騒ぐほどのことがあろうか。私はまるで、夢を見ているように毎日を過ごしていた。  こうして目を覚まさせてもらえなかったら、私の夢はどんな無残な終わりを迎えたことだろう。 「姫」  今の気持ちを言い表す、うまい言葉がみつからない。 「私の命がなんとか永らえたのも、ネグトレンがいてくれたおかげです」  姫がにっこりと笑う。 「命の恩人ですわね」 「うん」  そろって振り返ると、私と姫の感謝のまなざしにも、ネグトレンはただ肩をすくめた。 「ネグトレン」  私はまっすぐ向き直り、菜園の柵を握りしめた。ずっと気になっていたことがある。 「イウォリ隊長愛読の、あのカールス大王 …… 」 「カーサル大王。覚えてくださいよ。それこそ命の恩人なのに」  そうは言っても、こちらが勝手に名前を利用したのだ。大王に私を助けるつもりなどなかったろう。 「そのカーサルだが。補記というのは、製本された書物に別紙をはさんだり、余白や欄外に書き付けたりして、あとから誰かが書き足すものなのだろう?」 「それが何か」  私は舌で唇を湿した。 「隊長の蔵書に、お前は …… カルサレスの名をこっそり書き加えたのではないか? 隊長が私を貧乏貴族でなく、由緒ある大家と勘違いするように」 「まさか。隊長がそのページを読むかどうかも分からないのに。それに私が旦那の貧乏ぶりを知ったのは、ご領地に最初に手紙を届けに行ったおりですぜ」 「あ、そか」  私は拍子抜けして額を叩いた。 「そのときお前が届けた手紙には、私の身代金がすでに大貴族としての額で記されていたのだっけ。ええと、ではカーサル大王の髪の色は …… ?」  ネグトレンはしたり顔で唇をこすった。 「そいつは確かにでっちあげました。勢いで押し切るには見た目に訴えるものが必要で」 「史実としては、どうなのだ? 大王の髪は」 「さてね。昔の王さまの王冠の下が何色だったかなんて、記述によってまちまちでしょうよ」  ネグトレンはえいしょと柵に寄りかかり、深く両肘をついた。表情は影になって分からない。 「面白いじゃありませんかね。どっかの誰かが“カーサル”と“カルサレス”、音が似てるってだけで引き合いに出した大王に、何百年ものちの我々が、こうして救われた」  私のほうは柵を背にして夕日に向かった。 「うん。面白いな、ネグトレン」  いつの間にか、こやつの中で“カルサレス”が“我々”になっているのだ。私は夕日がまぶしくて目を細めた。 ■23 「ネグトレン、あと」  あれはどうなった、と言い終わる前に、伝わったのが分かった。 「山の行商人は、帳簿なんてシャレたものつけやしません」 「そうか」  思考を先回りされるのはいつものことだが、ワインのお代わりが要るか要らないかまで見事に察してくれる給仕には、うんと褒美をはずむべきだろう。 「良いホラ話だったぞ、ネグトレン」 「お褒めに預かり、きょうえつしごくー」 「もうちょっとシャンと言え」  私たちは怠け者の農夫みたいに、菜園の柵に並んで肘をついた。  あたりはほとんど薄暮の中に溶けていたが、菜園は最後まで陽が当たる場所だ。私は西日を背に受け、暖かさの名残りを楽しんだ。 「この中庭ともお別れか」  名残りを惜しむ暇があってよかった。隊長が本陣に駆け込むまでにはまだ数日かかるだろう。 「クエイサどのは大丈夫かな? あれだけ護衛を雇ったのだから、帰路も不安はなかろうが」  ネグトレンはどうするのだろう。私たちと平原に来るつもりがあるのだろうか。  まともに訊(たず)ねるのは少々照れくさいのだ。どのように切り出したものか。 「実はネグトレン、帰りの山越えがまた心配なのだが、明日お前に道案内を …… 」  私がもごもごと言いかけると、ネグトレンは「おっと」と言って起き直った。 「明日は日が昇る前に発って、北へ向かいますぜ」 「北? なぜ」 「一番近い砦が、まずは北にある」  私はぽかんと見つめ返した。夕日が斜めに射し込んで、ネグトレンの瞳がぴかりと光る。 「明るいうちに回れるだけ、プノールンプルンの砦を順繰りにやっつけて行きましょうや」 「やっつけ …… 戦をしかけるということか? 兵を挙げると?」 「せっかくこれだけの兵士が手に入ったんですぜ。毒をくらわば皿まで」  その毒も皿も、クエイサ尼僧長のものだ。雇ったのは教会であって私ではない。   ――― と、言いたいのだがまたもや口がぱくぱくするばかりだ。ネグトレンは得々とうなずいている。 「伝道教会の勢力範囲を回れば、プノールンプルンの向こうを張る兵力くらいすぐに集まりましょう。ええ、やすやすと」 「しかし、クエイサどのが承諾しないぞ。新たな戦乱の種をまくなど」  やっとしゃべれるようになりそれだけ言ったが、 「若」  振り返ればベレンツバイの姫はえらく肝の据わった顔をしていた。この表情も、私は苦手だ。 「クエイサさまには先ほど私がお願いに上がりました」 「姫が?」  あの視線にひとりで立ち向かったというのか。さすがだ。私は恐ろしくてこのように中庭に逃げている。  一段落してから入信の儀式が途中だと言い出す者がいて、ひとまず魂を返していただけと、尼僧長のところに連れて行かれたのだ。  私を前にすると尼僧長は新たな怒りが沸き起こって来るらしく、儀式のあいだじゅう、ぐつぐつと煮えたぎるような視線にさらされた。仕上げにお守りを首にかけてもらったのだが、そのまま絞め殺されそうで気が気ではなかった。 「カルサレス平原をあげて伝道教会派に改宗すると、クエイサさまに申し上げましたの。若を助けるために大切な教義をねじまげて利用したのですもの」  私は姫を見つめたが惚れ直していた訳じゃない。頭を整理したいのだ。つまりけっこうな額の寄進を申し出て、受け入れられたということか。 「代わりに兵を貸してくださいと? そんな取り引きに …… あの尼僧どのが乗ったというのですか」  尼僧長がいかめしくも信仰と金袋を天秤にかけているところを想像してしまった。 「いいえ」  姫は首を振った。 「巻き添えとは言え、教会の総本山たるクエイサ尼僧長が、兵士の離反に協力した形になりましたわ。このままではプノールンプルン各地の伝道教会信徒が、裏切り者として迫害されてしまいます。信徒たちを救いに行かねばと申し上げたんです」 「救いにというか …… 姫、やはりそれは挙兵ですよ」 「ありゃあ、血筋だな」  ボソリと言ったのはネグトレンだ。 「何?」 「かつて南に反旗を翻した、祖父(じい)さんの血が騒ぐんですぜ」  ニヤニヤと笑っている場合か。挙兵だぞ。戦争を主催するのだぞ。 「心配なさらずとも旦那、プノールンプルンじゃ伝道教会は押しも押されもしない主流派、傭兵も三分の一は伝道教会から女房をもらってるって言っても過言でない。城門でクエイサさまと聖キエトさまが呼ばわれば、砦のひとつやふたつ、剣も弓も使わずに落とせまさ」  突っ走る弁舌をさえぎり、 「その聖キエトをやるのは …… 」  おそるおそる言ってはみたが、答えは分かっている。 「そりゃ、旦那にお願いしますよ」  私はがっくりと柵にすがった。  大王の末裔を騙(かた)った上に今度は聖人か。私のホラ話は、一体どこまで膨れ上がってしまうのだろう。 ■24  また石段にしゃがみたくなっている私をよそに、ネグトレンは上機嫌で続けた。 「聖キエトさまの生まれ変わりに、古きカーサル大王の末裔一族までついてくれるっていうんだ。兵士どもが盛り上がっちまってもう」  私はハッと顔をあげた。 「さっき兵舎の広間のほうから聞こえた威勢のいい鬨(とき)の声は …… 」 「話がまとまったし、クエイサさまから皆に申し渡しを願ったんで」 「なん …… 」  挙兵の発布を、私抜きでやったというのか。だんだん腹が立ってきた。 「おいネグトレン。ホラもあまり盛りだくさんだとかえって嘘くさいぞ」  私は指を折って数えた。 「いにしえの王で末裔で、土地の聖人で生まれ変わりだと。王も聖人も生まれ変わりも、終いにごっちゃになりそうだ。うるさすぎると思わんか」  ネグトレンにはこたえた様子もない。 「そこは上手に使い分けましょう。武(ぶ)ばった土地ならカーサル大王、宗教に堅い土地なら旦那は兜を取ってお顔をさらし、聖人奇跡譚を強調する」  しれっと言った。私の用は顔だけだとしれっと言った。 「ですもんで夜襲じゃだめなんでさ。遠くからはっきりお顔が見えるよう、日のあるうちが頼み」  明日晴れるといいがなあと、西の空を確かめ始める。私も天を仰いだ。  天よ、バチを当てるならこの男だけにしてください。あの尼僧長なら恐怖の神通力で神罰のひとり分くらい呼び寄せられたろうに、今やきれいに丸め込まれてしまったのか。私は儀式を中断された尼僧長の憎々しげな様子を思い返した。この男はこれまでもこうして口八丁手八丁、たぶん色々やってきたのだ。  私はぶるぶると頭を振った。 「乗せられんぞ。私は自らの分(ぶん)はわきまえている。私はやはり平原の田舎貴族だ」  ネグトレンは指をいっぽん立て、さかしげに振った。 「王なんて、元をただせばどれもそんなものですぜ。ダシートに至っては、ご大層な宮廷をかまえる前は南の海で海賊をやってた。だが旦那」  急に、昔連れて行かれたガッコの市を思い出した。商談が白熱して来ると、商人たちは皆こんな顔になったものだ。 「今はダシートも力が落ちている。現にこの戦じゃ終始プノールンプルンに押され気味だったじゃありませんかね」  それは確かにそうだった。私とともにたくさんの騎士が捕虜として捕えられていた。エンデシュ原の戦いはダシート側の大敗に終わったのだ。イウォリ隊長の戦記ごっこさえ、作戦として図に当たったらしい。ダシート騎士の腰の弱さ、要領の悪さがうかがえる。  ネグトレンが指を鳴らした。 「プノールンプルンの兵力を受け継ぐ“ついで”と思って、ダシート攻略の流れにも、そのまま乗っかっちまっちゃどうです。ダシートを飲み込めば、ユワク王だって夢じゃない」  この店が指パッチンで売りつけようとしているのはユワク統一か。めまいがしてきた。 「ユワク王 …… 素敵ですわ」  いつの間にか隣にいた姫がうっとりと言ったので、ものは試し。夢想の中の彼女の黒髪に、王冠を載せてみた。   ――― 悪くない。切らせてしまった黒髪の代わりとしては、なかなか悪くない。 「そうは言うが、ネグトレン」  私は精一杯重たく首を振った。 「ダシートに“聖キエトさま”は効かないぞ。そこからは本当の全面戦争になる。策はあるのか」  冷たく言って顎を上げる。私だって戦のことくらい分かるのだ。少しは。  ネグトレンがニヤリと笑みを広げた。“釣れた”という顔だ。  私は、“聞くだけ聞いてやる”の顔をしてみた。 ■25 「おっしゃる通り、全面戦争はまずい」  ネグトレンは平手で木の柵を叩いた。 「そうなる前に外交交渉でさ」 「外交?」  ひねりもなくおうむ返しする私に、ネグトレンも子供の返事みたいにうなずいた。 「北ユワクを束ね、カルサレスから河でつながる北海の富と合わせれば、まずはひとしなみの勢力になっている。放っておいてもダシートのほうから国交を申し出て来ますって」 「うーん」  私は首をひねった。もう少し何か、思わずあっと声が出るようなものを期待していたのだ。 「そんな即席のナニで、歴史ある大国ダシートに対抗できるとも思えないが」 「心配ご無用。力はあるし金もある。あと入り用なのは、ちょっとした看板にできるような、血筋でしょうな」 「カーサル大王か?」 「いや、大王には休んでていただきましょう。秘訣を言いますとね」  とっておきの掘り出し物、お客さんは運がいい。ガッコの商人も同じ呼吸で声をひそめたものだ。 「大王についちゃ、“なんでも敵はカーサル大王の末裔らしい”と噂が流れる程度にしか使いません。出典もあやふやな傍説が頼りなんだ。公式の場では、こっちからは肯定も否定もしないのがいい。ちゃんと調べられてシッポが出たりしては逆効果だから」 「じゃあどうする」 「高貴な血筋との縁組でさ。旦那はせっかく独身なんだしね」  楽しそうに柵にもたれかかり、いやらしく顎をさする。 「中央でも南のほうをあたって、由緒正しきお姫さまを探しましょうや。湖沼地帯あたりがいいかな」  それはいかん、ベレンツバイの姫をないがしろにすることはできない。だが、 「それはいかん」  言いかけた私の声に、 「いいですわね」  取りすました声が重なった。見ると姫は深々とうなずいている。 「湖沼地帯なら古い家柄が多いと聞きますわ」  姫まで湖沼地帯を推(お)している。一体どうして、そんな遠くまで妻を探しに行かねばならんのだ。 「姫。私はもっと近場でいいのですが」 「いいえ、若。ダシートも小さくなってキャンって言うしかないような、すごい家柄と縁組しましょう」  決意みなぎる表情は、私を戦場へ送り出したときと同じだ。同じなのだが、言ってることが正反対なのはどうしてだ。 「若の身代金を払って欲しいと頼んだとき、あのケチ王ったら、“戦に遅れて現れた騎士のことなど知らん、そちらで勝手にやってくれ”と、こうでしたのよ」 「はあ」  昂然と頭をそびやかす。束ねた髪が黒馬の尾のようにしなった。 「私、では勝手にいたしますと申しました」 「そんな手紙を、ダシート宮廷に送りつけたのですか?」 「あの、いいえ。口で言いましたのよ。ダシートからの手紙を読みながら、うちの者にね」  目に浮かぶようだ。怒りに燃えながらカルサレスの皆を集めて一席ぶっているところへ、ネグトレンが現れて知恵を貸したというわけか。 「絶対に許しませんわ。田舎者と侮ったことを後悔させてやる」  これは …… ネグトレンが持ちかけた計画には、ダシート攻略までが最初からおり込み済みだったということか。おかげで姫がいよいよ奮い立ち、こうして私が救い出されたわけだが、これはあまりにけしかけすぎだ。 「いっそダシートと婚姻してしまうのはどうかしら」  姫は手の甲を唇に押し付け、じっと考え込んでいる。気に入りの馬の交配を思案しているときと同じ、真剣な顔つきだ。どうしてくれる、ネグトレン。 「なるほど。婚姻による外交強化は国の礎(いしずえ)だ」  煽るな、ネグトレン。彼女は勢いが付くと止まらないんだ。 「若。ケチ王が恐れをなして、うちから嫁をもらってくれと頼んで来るぐらい、大きな勢力になってやりましょうよ」 「あの」  返事も待たず、姫は一歩さがって首をかしげ、何かの構図を測っている。 「ダシートの女性に金髪のかたがいるといいわねえ。肖像画にふたり並ぶと映える」 「旦那は金髪より赤毛がお好みでしたね」  私はウッと息を飲んだ。それを言うのはネグトレン、男の仁義に反するぞ。だが、 「まあ、知らなかったわ」  姫は、さして残念そうでもなく自分の髪をなでた。 「若は私の初恋でしたのよ」  話が見えない。自分は側室でいい、とか? しかし“初恋”には過去形がくっついている。  姫がチラと横目を上げた。 「お話してくださった?」 「いや、まだなんだ」 「もう。トレーン」  トレン? こんな鼻にかかった声で彼女が呼ぶのは、そんな名の仔猫か何かであるはずだ。私は小動物を期待して草むらを見た。  願いもむなしく、ネグトレンが私の視界を横切り、彼女の手を取った。 「ハーミナ」  ハーミナ? なんだそれは。私だって敬称つきの氏族名でしか呼んだことがないのだぞ。それに彼女の名はハーミナではない。氏族名でしか呼ばなかったからあんまり馴染みがないが、確かヨルヘル …… ヨルヘルミナ。 「あっ」  思わず声が出てしまった。畜生、ネグトレン。我が姫の名を、気安く後ろ半分だけに略しおった。 ■26 「旦那のおっしゃった通りだったんで」 「何がだ?」  噛み付くような私の剣幕にも、手と手を取り合ったふたりは一向おかまいなし。  ネグトレンが姫に微笑みかける。 「いつだったか私のことを、お前はベレンツバイの姫とウマが合いそうだとおっしゃったんだよ」 「まあ!」  姫は目玉が転げ落ちるくらい大きく目を見開いた。 「若ったら、私たちを引き合わせるつもりでいらしたの?」  手を胸にあて、心底驚いたように息をつく。 「お人が悪い、若ったら」  このはしゃぎよう。あなたは確か、かつて私に遠まわしな求婚をなさった、あの同じ女性ですよね? 「本当に私たち、似た者同士でしたの」  姫は頬を染めながら首をかしげ、ネグトレンと目を合わせた。 「若を見ているとなんだか放っておけなくて、どうしても助けて差し上げたくなるんだって言いましたら、彼も同じだって」  私をダシに盛り上がってくれたわけか。面白くもない。 「私、領民を武装させてシオレンカを襲撃しようとしていたのですが」 「ひ、姫」 「そこへトレ …… あの、ネグトレンが、もっといい方法があるって。カーサル大王のことや、伝道教会派の教義のことなんかを教えてくれましたの」 「そうですか」  ネグトレンに礼を言うべきなのかも知れない。いや、ぜひ言うべきだ。この無鉄砲姫に率いられた羊飼いたちの武装蜂起の末路など、想像するだに恐ろしい。家令が手紙のなかで、ベレンツバイの様子に一切触れなかったわけだ。 「おりよく彼のほうでも、砦を発つまえに改宗の手はずだけ整えていて、あとはカルサレスで有志を募ろうと思っていたのですって」  彼らふたりに運命的なものがあると、認めるべきなのかも知れない。ふたり同時に、私を救い出そうと思い立ってくれたのだ。だが、 「運命的なものを感じましたわ」  先に言われてしまった。こうなると、もうふてくされるしかない。 「運命も結構ですが、姫」  私はふん、と鼻を鳴らした。 「運命の中心にいるはずの私には、ひと言の相談もなかったですな」  ネグトレンの頬がぴくと震えた。笑いをこらえているのだ。  女を取られ、そのうえ爆笑されてたまるか。私はネグトレンをにらみつけた。 「お前もだ、ネグトレン。何とか言え」  眉を寄せ、怨念を込める。先ほど尼僧長の眼光にじりじりと灼(や)かれた効果が、少しでも身についてはいないか。 「旦那は即興芝居のほうが、より真実味をお出しんなれると踏みましたんで」  私の付け焼き刃の眼力は、あっさりはじき返された。ネグトレンとて同じく尼僧長の眼光を浴び、そのときは私よりも済ました顔をしていたのだった。 「だって、若。お知らせしようにも手紙は検閲されてしまうというし」  姫が口をとがらせている。 「まあ …… そうですが。ネグトレン、お前は違うだろう。いつでも私に話せたはずだ。いつから計画を暖めていた」 「それはもう、ご尊顔を拝したそのときから」 「トレン、真面目に」  姫が肘を突付く。この男がまともな口調になったときほどふざけていることは、すでに把握しているようだ。 「いえね。旦那のお話を聞くにつれ、こりゃあ筋金入りのお人好しだ、悪い知恵を貸してやる人間が必要だって思いましたんですよ」  私はじろりと横目でにらみつけた。 「お人好しね。間抜けな領主だと言いたいのだろう」 「いや、旦那だけでなく、カルサレスの人々みんなでさ」 「土地がらまとめてくさすのか」  受け答えがついぶっきらぼうになる。ネグトレンは、ふふと含み笑った。 「だってそうでしょうが。ベレンツバイが守る河の関門には、領主である旦那でも手を出せないという。では金があるかというと、領地内のどの氏族とも、財産じゃどんぐりの背比べだ」  話しながら、あちら、こちらと手のひらを返し、最後に肩をすくめた。 「権威も財力もさっぱり弱っちまった領主なんざ、とうに廃されてたっておかしくない戦乱の世ですぜ。なのにカルサレスじゃ、旦那も旦那なら、領民も領民」  やっぱり、平原まとめてうすのろの汚名を着せられている気がする。  姫が私とネグトレンをオロオロと見比べた。 「彼、こんなに領民に慕われている領主は知らないって。カルサレスの地がとても好きになったと言ってくれましたのよ」  取りなすように言う。ふん。こやつが好きになったのは、カルサレスのなかでも特に限られた場所だけだろう。河の合流点の、関門のあたりの。すらりとした黒髪の乙女の住むあたり。“べべんつばいの姫”としか言えなかったころの、まだ幼かった私もよく歩いたあたりだ。 「あの、若」  姫が不安げに私を見守っている。“領民の氏族名もよく発音できずに、りっぱな領主さまになれますか”と私を叱りつけた、勝ち気な少女の面影は、今はもう遠い。 「実は、お願いがありますの」  姫がおずおずと進み出ると、 「ハーミナ、俺から申し上げるから」  ネグトレンがやんわりと制した。  驚いたことに、姫は“はい”などと言って、しおらしく引き下がった。 ■27 「閣下。私を閣下の正式の騎士として、召し抱えていただきたいのです」  閣下ときた。言葉つきもしゃっちょこばって、早くも騎士を気取るつもりか。私が黙っていると、我慢できずに姫が進み出た。 「歩兵にすぎない彼との結婚なんて、いくら両親が私に甘いといっても、とても許してもらえませんわ。でも全ユワクを統べることになるお方の宮廷で、何かの地位をいただくことができれば。参謀とか、近衛とか …… 」  つまり私を田舎の貧乏貴族から引っぱり上げるついでに、愛しいネグトレンの身分を底上げしようというわけだ。 「それに私、クエイサさまに、当然うちの両親も改宗しますとお約束してしまいましたの。帰ったらどんなに叱られるか」 「姫 …… 」 「でもユワク統一という崇高な目的があれば、きっと両親を説得できますわ」  人はこんな理由で世界制覇の野望を持つのか。私は戦つづきの日々を捨て信仰の道に入ったというクエイサ尼僧長の父君の気持ちが、ちょっと分かった気がした。 「お願いですわ、若」  命の恩人だと言わされたばかりだ。断れるはずがない。断れるはずがないと彼女も思っている。思っていて“お願いですわ”などと言うのだ。ああ。 「よいだろう」 「トレン! よかったっ」 「ありがたき幸せ」  私の宮廷に仕えたいというのだ。つまりこやつの生殺与奪は私が握る。何なりと好きに片付け放題ではないか。  どこかの辺境に長い戦に行かせたり、難攻不落の砦を落として来いと無理難題をふっかけたりするのだ。不老長寿の薬が欲しいなどと言って、世界の果てへ送り出してやろうか。  私はおよそ暴君と呼ばれたあらゆる先人たちの偉業に思いをはせ、悪虐な気分にしばし酔った。  ふと見ると、未来のユワク王の御前だというのにネグトレンはうろうろとそこらに屈み、菜園の畝(うね)から小っちゃな葉っぱをつまみあげては腰の袋にしまっている。 「おい、何をしてる」 「今日の夕めしのために、ちょっと香草をね」 「まあ、あなたが料理をするのっ」  さっきから姫は幸せが勢い余るのか、何か言うたびにぴょんと跳ねる。ニヤけ男とぴょんぴょん姫で、見ていられない。 「ああ。肉の扱いだけは、あのへんの女どもに任せておけないからさ」  ――― まさか。私の舌の上で、深い旨みと絡み合う精妙な香り、えもいわれぬあの味が蘇った。 「私が牢番のときはいつも夕食にお出しした。閣下はとても気に入ってくださったんだよ。そうですよね? 旦那」  ネグトレンはこちらに向けて、つまんだ香草の葉っぱをくるりと回した。悪魔の笑いだ。 「悪魔のソースだ」  我知らずつぶやいていた。姫がまあとため息をつく。 「そんなに美味しいの。トレン、うちの料理人にもレシピを教えて?」 「うーん、ソースに香草を効かすんだが、煮詰め具合の加減が …… いや、教えられるもんじゃない」 「もう。ケチッ」 「いつでも作ってあげよう。食べたいときに」  ネグトレンは甘やかすような笑顔をこちらにも向けた。 「旦那にも。もちろん」  愛想よく細めた目の奥には、いつもの人を喰ったような笑いが灯っている。この男は一生私の牢番をつとめることになるのかもしれない。私は一生この男の言うなり、この悪魔の囚人というわけだ。 「うう」  私はのどの奥でうなった。悪魔のソースを持ったまま、この男が世界の果てへ向けて旅立つとしたら、私はそのあとをフラフラとついて行ってしまうかもしれない。 「いつなりとお申し付けを。わが君」  急に芝居がかって、悪魔が膝まづいた。ふわりと腕を振り、マントを打ち払う。   ――― 香草が香った。 「ネグトレン、それは嬉しいなあ」  それ以上何か言うと口から涎(よだれ)が溢れそうになり、私は慌てて口をつぐんだ。        カルサレス卿の獄中記 おわり ■カルサレス卿の獄中記(補記) (「上代戦記」辺境の三の巻 欄外補記)   ――― 古きカーサル大王は、成人した王子それぞれに、広い王国各地の地方代官の職を与えた。大王の勢力が衰退したのちも、彼らの一部はそのまま辺境に残った。現在のカースル、デカッサリア、カルサレス、キアサルグ、トランカーサルなどの地方氏族は、その末裔であろうとされる。ノイスガ公六年、トベ記す。   ――― 上記カルサレス氏について追補記。カルサレス。シバムの西、カルサレス平原の黒髪の一族。リオノ・カルサレスはのちのユワク皇帝。紙幅たりず、別紙にて詳細。 (添付別紙)   ――― リオノ・カルサレス。プノールンプルン・ダシート戦役に参加し、一時は虜囚の憂き目に遭う。身柄を拘束されていた砦の指揮官を計略にかけ、逃走、挙兵。資金や宗教における協力者を巧みに募(つの)り、敵兵の寝返りを誘う人身掌握術、ならびに無用な殺戮を流麗に避けて通るその手腕から、「無血開城の雄」、「丸腰王」と称えられた。しかし同時に「策略王」、「ペテン王」とも呼ばれる。  北方プノールンプルン王を廃位し幽閉。北海沿岸地帯の商人ギルドによる銀行経営を保護し、現金に頼らない為替決済による交易の発展に寄与する。  南方の大国ダシートとの婚姻ののち、ダシートの王位継承権を主張。プノールンプルンとの長期の戦乱で疲弊していたダシート宮廷を、半ば強引に買収し、全ユワク統一を果たす。このとき挙兵からわずか六年。  軍師とした同郷ベレンツバイ家当主への信任あつく、常に食事の毒見を任せた。ために厨房を一手に仕切った軍師ベレンツバイは、「ソースパンの番人」の異名も持つ。  敬虔な伝道教会派信徒。辺境の民にも知識の光をと、荒野の街に、古今の名著を多数寄贈した。筆者はかつていちど街道で行軍を見物したが、兜の面頬(めんぽう)を深く下ろした武人が、筆者を見るなり鞍からずり落ちた。筆者はそのとき、買い求めた古書を山のように抱えており、辺鄙な場所にもかような学究の徒がいることに驚いた、と、かの武人が周りの者に話すのが聞こえた。あとで人に聞くと、それがくだんのベレンツバイ軍師であった。そのすぐあと、筆者の住まう荒野の街に皇帝の名で書物の寄贈があり、そこが筆者永住の地となった。元来、華やかな場での栄達というものは好まず、書物があれば幸せという質(たち)なのだ。火事のとき、さいごまで書庫を守ろうとして、危うく死に掛けたこともある。  あつかましく私的な雑感ばかり述べてしまった。筆者は事情があって、若き時代の皇帝と知遇を得たこともあるのだが、匿名補記の精神に沿わないため、詳細には言及しない。  歴史研究において、記述者は特定の個人であることをやめねばならぬ。奥ゆかしき先人トベ師にならい、筆者も署名には氏族名を冠さずにおこう。  ユワク統一暦十八年、荒野の隠居者、スデンデンテ記す。 ■クエイサ尼僧長の教会日誌(1)  クエイサ尼僧長が裏庭に足を踏み入れたとき、子供の細い肩がびくんと跳ねた。 「あー。クエイサさま」 「お出しなさい」  尼僧長はずいと片手を出した。  子供には焚き火の番を言いつけてあっただけで、火のほうは問題なく燃えている。しかし目を見れば隠し事をしていると分かるのだ。 「 …… 」  子供はのろのろと懐を探った。差し出したのは、よく砥いではあるものの粗末なつくりの小刀と、それを使って切り取ったらしき色刷りページの一枚。  尼僧長は目じりを怒らせ、いずれもまとめて取り上げた。 「これらは皆、信徒が“捨てる”と言って教会に差し出したものですよ。ひとつも地上に残してはなりません」  焚き火のそばには革装丁の聖典から質素な護符にいたるまで、雑多な品が積み上げてあった。さまざまな階層の人々から改宗のしるしとして受け取ったものである。急に入信の儀式がたてこんだのだ。  十分の一税の象徴として受け取った着衣の切れ端は、はぎれとして教会で使うが、旧宗派に関わる品々は全くの不用品だ。まあその場でごみの中に置いてくるわけにもいかないので、こうして教会に持ち帰っての焼却処分となる。 「ごめんなさい …… この図柄がとてもきれいで」 「まったく」  改宗者には貴族もいる。きらびやかな持ち物に悪心をそそられるのは子供ばかりとは限らない。いかにもきらきらしい品があれば尼僧長自ら処分するようにしているのだが、今回そのようなものはなかったはずだ。カルサレスの民はみな揃って虚栄とは無縁の、素朴な人々だった。 「ふむ」  尼僧長はページを手に取ってかざした。  ページいっぱいを使った円形の図柄は二色づかいで、さして豪華な彩色でもない。しかし植物の蔓(つる)がうねうねと伸び、不思議な動物や目や手などのモチーフと複雑に絡み合った奇妙な連続模様は、強く目に訴えかける迫力を持っていた。 「確かに手の込んだ図柄ね」 「でしょう? あの、縁取り模様のお手本にしてもいいでしょうか」  子供は手先が器用だったので、教会の工房で彫刻師の見習いをさせている。寝食も忘れ、あらゆる木切れに嬉々として意匠を彫りつけていると、世話役の尼僧がこぼしていた。少しは雑用も手伝いなさいと、尼僧長が火の番を言いつけたのだ。 「こんな模様を見たの、初めてです」  子供は焚き火にあてられたうえ、さらなる興奮で顔を真っ赤にしている。 「お待ちなさいな。このページはどの本から切り取ったの?」  安易に意匠を拝借して、そこに込められた意味合いが教義に反するものだったのでは困る。 「もう燃してしまった?」 「いいえ」  子供は小さな冊子を手渡した。 「ああ、ふん」  粗相をしたかと子供がすくみ上がるほど、尼僧長は厳しく表紙をにらみつけた。馬具臭いこの本にはどれより見覚えがあるのだ。 「あの若さまの持ち物ね」  尼僧長はむっすりと冊子を開いた。問題のページは宗教的な文言が並ぶ前の、平原で暮らす喜びについて書かれた詩篇のような箇所にあった。 「ではこれは、卿の紋章になるのかしら?」  尼僧長は図柄をもう一度眺めた。 「おや」  ふいに、幾何学模様の一部と思われた円周部分から、ある記号が浮かび上がった気がした。 「これは …… 文字かしら?」  ためしに、表音文字として発音してみる。 「ダーム、イレ …… イル?」 「どこですか? 僕には分からなかった」  子供がのぞきこむ。 「今の文字とは違う古代文字ですよ。それもところどころ模様と溶け合ってしまってる」 「ではこれはそんなに古い本なのですか? 古代の?」  子供が目を輝かせた。 「バカおっしゃい。古びた品ではあるけれど、この紙の具合なら本のほうは作られてせいぜい数十年といったところです」  尼僧長は切り取られたページの周辺をパラパラとめくった。 「この図柄自体はきっと昔から伝えられていたものだったのね。聖典を作るたびに同じものを写させていたのでしょう。写しの写し、とやっているうちに文字が文字として認識されず、他の部分と混ざってしまったのだわ」  尼僧長はあらためて図柄を検分した。今度は頭の隅に文字の形を意識しつつ、慎重に眺める。 「おわりの、時代、偉大な …… ?」  単語自体も今の言葉とはまるで違う。しかし古い時代の抒情詩によく見られる語形に、似たものがあった。断片ばかりで文章にはなりそうもない。だが慣用句的な品詞を手がかりに語順を取っかえ引っかえするうち、大きな円周に沿って、じわりと意味が立ち現れはじめた。  ――― 偉大な父祖の時代、のおわり、敵から逃れ、平原に根を、名を変え、なお忘るな、カーサル大王。 「あらま」  尼僧長は目を丸くした。 ■クエイサ尼僧長の教会日誌(2) 「大王さま、こんなところでお目にかかるとは、まあま」  くく、とかみ殺したが抑えきれず、尼僧長はコロコロと笑い始めた。 「あの子たちの罪状から“偽りを述べし罪”を除いておいてやらねば、ほほほ」 「クエイサさま?」 「ああおかし、ほほ」  小刻みに揺れる僧服を、子供は不安そうに引っぱった。 「あのう、これは罪深い異教の模様だったのでしょうか? 使ってはいけませんか?」  尼僧長は目じりをぬぐいながら片手を振った。 「異教と言えるのかしらね。古代文字ですもの。この意匠はわたくしたちの神が現れる以前のものですよ」 「神が現れる以前 …… 」  それを考えるのはいけないことのような気がして、子供は黙り込んだ。 「図柄の植物や動物は、ここユワクでは東方の風物として紹介されているものに近いわ」  上機嫌の尼僧長はひとり言のようにつぶやいている。 「一説に、かのお方の生誕の地は東方とも言われる。東方、漆黒の髪の人々の住む地 …… ふうん。なるほどねえ。ふうん」 「クエイサさま、この模様を使ってはいけないのでしょうか?」  仕方ないので、子供は関心事だけを訊ねた。 「そうね」  尼僧長は迷うようにひと呼吸おいた。 「いいでしょう。でも」  冊子の硬い表紙にひらりとページを重ね、子供から取り上げていた小刀をかまえる。 「あっ」  一気に丸く刃を滑らせた。全周には至らずかまえ直し、切り残しを丁寧になぞる。 「ああ …… 」  切り抜かれた丸い紙を、子供はため息とともに受け取った。古代文字のある外側の円周部分が、きれいに断ち切られている。 「構図を見習う程度になさい。要素をそのまま取り入れないよう気をつけて。練習が済んだら、この紙は燃やすように」 「 …… はい」  子供は唇をかみしめ、図柄の端を見つめた。精緻な蔦(つた)模様は文字のところにも絡みついていたのに、小刀がすっかり切り取ってしまっている。  尼僧長は小さな肩をぽんと叩いた。 「よそからの拝借ではない、伝道教会独自のものに工夫するのよ。お前の腕でね」 「はぁい」 「こないだの花菱模様はよかったわ。見た人をハッとさせる」 「はい!」 「お行きなさい。食料庫で皆、出立の準備にかかっているから、荷造りを手伝って」 「はーい」  子供は元気を取り戻し、いたずらっぽく笑った。 「明日からは東へ向かって、砦をやっつけて回られるのですね」 「“やっつけ”たりなぞしません。信徒たちを救うのですよ」 「はーい」  弾むように駆け去りながら、また手の中の丸い図柄を眺めている。 「前を見て歩く!」  元気な姿が角を曲がるのを見送り、尼僧長は片手を腰にあてた。 「さて」  また笑い出しそうになりながら、尼僧長は丸穴の開いた紙切れに目を落とした。 「明日も大王さまご一行と各地を経巡(へめぐ)るわけだけど。どうしたものでしょうね」  周囲には誰もいなかったが、尼僧長は声に出して話し、天に同意を求めるかのように目を上げた。 「カルサレス卿のために働くことは、自分にとって罪ほろぼしだと言ったあの言葉を、まあ信じてやるとして」  尼僧長は微笑みながら、少年だったネグトレンのすねた目つきを思い返していた。ぼろを引っかけただけのやせた肩をすくめ、山越え道を案内してやっていた客が嫌な野郎だったから金袋をくすねたうえ山道でまいてやったと、悪びれもせず言ったものだ。 「たやすく達成できてしまうなら贖罪にはなりません」  穴開きの紙をページにはさみ、パンと閉じる。 「こんなものの助けなど、必要ないわねえ」  小さな書物は炎の中に投げられた。 (了) =========================== =========================== お付き合いありがとうございました! 第一話、冒頭の一文は、実際にあることわざです。フランス語、スペイン語、ペルシャ語圏の各地で、同じ内容のことわざがあるそうです。「ことわざ酒房」というサイトで紹介されています。HPのほうにリンクがあります。 =========================== =========================== 作品へのご感想などいただけましたら大変うれしいです。 続編「赤毛姫の憂鬱」もございますのでよければそちらもどうぞ。 【著者】歩く猫 【URL】  別冊猫背文庫 http://book.geocities.jp/betuarukuneko/  挿し絵はこちら http://book.geocities.jp/betuarukuneko/gallery/top.html  地図もあります http://book.geocities.jp/betuarukuneko/gokuchu/g-index.html 【ダウンロード版アップデート】2016/04/07