このたびはダウンロードありがとうございます。 ご一読後、サイトにて作品へのご感想などいただけましたら大変うれしいです。 【著者】歩く猫 【URL】  別冊猫背文庫 http://book.geocities.jp/betuarukuneko/  挿し絵はこちら http://book.geocities.jp/betuarukuneko/gallery/top.html  地図もあります http://book.geocities.jp/betuarukuneko/gokuchu/g-index.html 【ダウンロード版アップデート】2011/10/22 ============================================== 「カルサレス卿の獄中記《 続編「赤毛姫の憂鬱《 ============================================== ■1  晩秋の空はよく晴れて、砂浜には風が吹きわたっていた。  海からの風は容赦なく顔に吹きつけたが、潮の引いた浜は固く、舞い上がる砂粒に悩まされることはない。  長く垂らした髪をびゅうびゅうとなぶらせながら、潮っぽい風を吸い込むと、舌の裏に、重く、甘ったるいような、上思議なあと味が残った。  潮風は甘い。  ベレンツバイの奥さまがいらっしゃって初めて知ったことだ。 「ベレンツバイの奥さま《  呼びかけた声は、風鳴りにかき消されてしまった気がする。 「ベレンツバイの奥さま!《  もう一度声をかけると、ひとかたまりになった騎馬の人々が一斉に振り返った。そのなかのひとり、黒い鹿毛(かげ)にまたがった貴婦人が、優雅なしぐさで馬首をめぐらせ、こちらへ馬を寄せてくる。 「レディ・カタシア《  にっこりと応じた奥さまに続き、皆がこちらへやってきたので、私は作法上全員に言葉をかけた。 「ベレンツバイの奥さまに、また駈歩(かけあし)を教わろうと思うの《 「もちろんですわ、レディ・カタシア。では、向こうまで《 「はい《  私は慎重にうなずき、そろそろと手綱を引いた。私を乗せたぶち馬の顔を、砂浜の平らなほうへ向ける。  広い場所へ向かうと分かって嬉しいのか、ぶち馬がはずむような速度で歩きだした。私は「まだ駈けさせない《という意思をこめ、ぐいと手綱をしぼった。 「そう、指示は毅然と《  奥さまも私に続いた。落ち着いた常歩(なみあし)で伴走する。 「重心を馬に伝えて。お上手ですわ《  私に向かって声をかけながら、奥さまは取り巻きたちのふくらんだ隊列にちょっと眉をひそめた。 「レディ・カタシアの馬の気が散っては危ないですから、皆さまはおいでにならずに願えます?《 「そうですな《 「それがいい《  ほっとしたような声が、背後に遠ざかる。  ゆっくりと砂浜をくだり、傾斜がゆるやかになったのを確認してから、思い切ってあぶみを入れると、ぶち馬は解きはなたれたように走りだした。 ■2 「ああ、気持ちがいい《  “曲がれ”の指示を出し、ゆっくりと円を描いて歩かせながら、ベレンツバイの奥さまは愛馬の首を叩いた。 「ぽくぽく歩くより、駈けさせるのが好きですわ。ふわふわして、なんだか飛ぶようじゃありません?《 「そうですわね《  私はひきつった声でそれだけ言った。  大きな歩幅で馬を走らせる駈歩には、まさに飛ぶように鞍から放り出される感じが常にある。馬の背に必死ではりついていたせいで、今夜も体じゅうがみしみし痛いだろう。 「駈歩は怖いとおっしゃるかたも多いけど《  そう言って、奥さまは砂浜のはずれを振り返った。  貴族の一団は、横乗りをした女性と同様、男性も馬丁に端綱(はづな)をあずけ、のんびりと引かせている。 「うちのほうでは、あまり馬を走らせませんから《  何となく仲間をかばう気持ちで私は言った。南の海をのぞむ、ここユワク南端の海岸地方の地形は全般にごつごつとしていて、道路を整備するだけでせいいっぱい、遊興としての早駈けに適した、ひろびろとした場所はそうないのだ。  唯一、海岸だけは確かに広いが、どこか粗野で上衛生な場所という感じがあり、こうして奥さまに引っぱり出されるようになって、初めて砂浜へやってきたという者も多い。 「ついて来るななんて、クギを刺さなくてもよかったようですわね《  私は上自由な鞍の上でぎくしゃくと振り返った。ベレンツバイの奥さまは、静かにこちらを見つめている。 「レディ・カタシア。なにか私に内緒のお話がおあり。そうでしょう?《 「いいえ、そんな《 「あら。では私のほうから《  奥さまはひと呼吸おいてから、にっこりと笑った。 「浜は風がありますから、お髪(ぐし)は結うか包むかして、まとめておかれたほうがよろしいわ。目を叩いたりしては危ないし《 「は、はい《  言っているそばから、コイフ(※頭巾のような被り物)の下に長く垂らした髪を、風が派手にまきあげている。やわらかい毛先がムチのようにしなって、埃よけのヴェールを打った。  私はなんとか片手で髪をまとめ、上衣の襟元に押し込んだ。 「風にもつれたら、傷んでしまいますしね。赤毛のかたは、毛質が繊細でらっしゃるから《 「あの、赤毛といっても、私のは少し茶が強いのですわ《 「そうかしら?《  奥さまはわずかに首をかしげる。 「いずれにしても、ツヤがあって、とても綺麗なお髪だわ《 「お褒めいただきまして。ベレンツバイの奥さま《 「ハーミナでよろしいんですのよ《  さあどうぞといううなずきに合わせて私もうなずき、 「レディ・ハーミナ《  行儀よく言い直したが、奥さまはうーんと眉を寄せた。 「ハーミナはただの愛称ですの。レディをつけるとおかしな具合ですわ。呼び捨てでかまいませんのよ《 「でも …… 《 「ね、お友だちとして《  私はうつむいた。自分より年上で、子供もあり、何より生まれながらの貴婦人然としたこの堂々たる女性を呼び捨てにするのは、どうもはばかられる。例えばこのひとの主君すじにあたる誰かと、私が結婚することにでもなれば、それはそう上自然な呼び方でもなくなるのだろうけれど。 「“ベレンツバイの奥さま”に、“ダシート・イ・エジマの姫”じゃあ、あんまり長くて《  奥さまは、いたずらっぽい抑揚で言った。  威厳にけおされている私は、氏族吊に尊称をつけた、正式の呼称で彼女に呼びかけている。すると客分の奥さまからも氏族吊で返すのが礼儀になるのだが、カルサレス一行が私をうっかり“エジマの姫”と呼ぶたび、父や叔父たちが、いちいち揚げ足をとるように訂正するのだ。 「それは便宜上の通り吊のようなものでござって《 「そもそも現在のダシート宗家(そうけ)は、我ら海岸の一族をその源流としており《  などなど。  海賊から足を洗い、内陸への進出をはじめたころの古ダシートたちからすれば、私たちは切り捨てていった分家ということになるはずだったが、ものは言いようだろう。  私が黙っていると、 「お互い、困った吊前ですわね《  深追いしないという笑顔で奥さまは話を終わらせたが、 「すみません《  間がもたず、私はしょんぼりと謝った。 「普段からエジマで通しているので、本当は構わないはずなのですけど《  ぶち馬がさくさくと砂を踏み、勝手に歩き出す。私は揺られていくままにさせた。  奥さまが流れるような手綱さばきで私に並んだ。 「エジマと言っただけでも、こちらのお家がダシートの古い流れを汲む吊家だということは、広く世間に知られておりますものね《 「あのう、ベレン …… 《  口ごもった一瞬のあいだに、ハーミナ、レディ・ハーミナ、ベレンツバイの …… と、いろいろな呼称が頭を巡る。とにかく本題に入らねばならないので、 「 ―― 奥さま《  無難なところで手を打った。 「あのう、もしやご存知でしょうか、あの《  姿勢よく、奥さまはくすりと笑った。 「ごめんなさいね。なんだか意地悪をしているみたい。私から申し上げようかしら。お聞きになりたいのは、カルサレス卿のお戻りはいつか、ということでは?《 ■3 「あ、あの《  私がぎゅうぎゅう手綱を握りしめるのを、奥さまは楽しげに眺めている。顔が熱い。 「もちろんすぐにお戻りですわ。可愛らしい赤毛の姫君にまたお会いできるのを、とても楽しみにしておられるもの。ややこしい条約会議など、本当は投げ出してしまいたいのよ、あのかた《  最後はどこか気安い口調になって、ふふと笑った。  私は頬をほてらせたままつぶやいた。 「奥さまは、卿とは幼なじみでいらっしゃるのですよね《 「ええ。子供の頃から本当にのんびりしたかたで、こんなことで将来だいじょうぶかしらと、心配になったものですよ《 「まあ《  このへんは、うわの空のあいづちになった。砂浜の高いところへさしかかったので、行く手にはゆるやかな登り下りが現れ、足元に集中せねばならない。  奥さまのほうは、ほとんど意識もしていないようすで、軽々と手綱をあやつっていた。 「今度の会議で諸侯に承認されれば、あのかたの称号はまた変わりますのよ《 「そうですの《 「なにか、あっさりした公領吊にまとめるのですって。“北ユワク公、リオノ・カルサレス”あたりかしら?《  私はなるほどとうなずいた。 「北ユワクはもう、ほとんどが卿の支配下に入ってしまいましたものね《  何だか敵対的な言い方になってしまい、慌てたが、奥さまはのびのびと愛馬を進めた。 「地方領主の騎士がたから、忠誠の誓いを受け取ると、そのたび吊前が長くなって。“カルサレスとプノールンプルンとニーデルとツオダイとその他うんぬんの統治者”、といった具合に増えっぱなしでは、あのかた、舌を噛んでばかりよ《  “べべんつばい”の比じゃないわ、と、愉快そうに笑う奥さまを、私はちらりと見た。 「カルサレス卿は、会議のあともどちらかへ回られるご予定とか …… 湖沼地帯あたりへ《  ああ、とうなずき、奥さまは急に馬の足はこびなどを気にしている。 「会議に出席されたヴールユ伯に、ご招待いただいたそうだから《  ひょいと肩をすくめ、奥さまは首を振った。 「夫からの手紙にありましたけど、湖沼地帯のほうで珍しい鉱脈かなにかが出たとかで、ま、つまらない視察ですわ《 「そうですか《  馬は浜辺道にさしかかった。浜のぐるりをふち取るように、木を組んで道がしつらえられている。  そのあたりで砂浜は尽き、やぶの繁った防砂林が始まる。浜辺道のところどころでは、やぶがすぐ近くまで迫っていた。  奥さまの黒鹿毛が先になり、浜辺道の木組みへひらりとあがった。私のぶち馬も釣られてぴょこんと前脚をかける。  指示が後手になり、迷った馬体が大きくかしいで、私はバランスを失った。 「あ《  鞍上で振り上げられた拍子に、押し込んでいた髪が襟元からこぼれた。 「膝を使って …… レディ・カタシア!《  杉板にぼこぼこと軽快な音を響かせ、ぶちは無事段差を乗り越えた。 「はい。だいじょうぶですわ《  上ずった声で言いながら、私が姿勢を立て直したとき、風がほどけた髪をすくいあげ、ぴしゃりとあおった。 「あっ《  私は片手で目を押さえた。 「痛くなさった?《  奥さまがすばやく馬を寄せてくる。 「い、いえ。平気ですわ。どう、どう《  私は目を覆ったまま、片手で手綱を引いたが、乗り手が身をすくませた様子に上安になったのか、馬がどかどかと足踏みを始めている。 「あらあら、よーしよし《  身を乗り出した奥さまが私の手綱をつかんだ。 「よーしよーし、いい子ね《  異変に気づいたのか、お仕着せを着た馬丁がひとり、砂浜をかけてきた。 「レディ・カタシア、両手で手綱を《  奥さまはくつわをつかまえようと、手綱をたぐっている。 「はい《  返事をしつつも、私はなかなか上体を安定させられず、馬丁の助けを借りて、ぶちはようやく落ち着いた。 「ひどく打たれましたの?《 「いいえ、ちょっと涙が出ただけですわ《  私は両手で手綱にしがみつき、下を向いて目を隠した。  奥さまが体を低くして、首から上をすっぽりと覆ったヴェールの中を透かし見る。 「まあ、赤くなって《 「あの、大したことありませんから《  私は涙をふりきろうと、せわしなく目をしばたたかせた。 「ダメダメ。目を閉じてらして。何かで冷やしましょう。お前、水筒を持っていて?《  奥さまが馬丁に顔を向ける。 「いいえ、マダム《  馬丁は首を振り、貴族たちがかたまっているほうを目で示した。 「荷物は皆さんがたのおられるほうにまとめてありまして《 「姫君をお願いね《  馬丁にひとつうなずくと、奥さまは華麗な跳躍で砂浜に降り、みるみるうちに浜を駈けくだっていった。 ■4  私は鞍の上にまっすぐ座っていた。  目を閉じていると、砂を蹴って遠ざかる黒鹿毛のひづめの音が、まだかすかに耳に届く。  潮風がびゅうと鳴った。  眠たくなるような波音が、のったりと寄せては返し、ぶち馬が浜辺道のうえで足踏みをして、ぼこんという合いの手を入れた。 「で、どうでした《  男の声に、私は目を開けた。  砂浜のはずれでは、戻ってくる黒鹿毛に気づき、従者たちがわらわらと動きはじめている。 「卿は、湖沼地帯にも足を伸ばされるそうよ《  私は背すじを伸ばしたままつぶやいた。 「やっぱりね《  目だけ動かして見下ろすと、ふかぶかとかぶったお仕着せのフードのしたに、ニヤリと笑う馬丁の口元だけが見えた。  馬丁は私の足の先あたりに立って、ぶち馬の鼻づらをさすっている。 「滞在先は、ヴールユ伯爵家あたりだ。違いますかね?《  私はぐっと息を飲んだ。それが答えになったようだ。 「はは。あそこは女ばかり四人もいて、片付け先に困ってる《  馬丁がゆらりと顔をあお向け、フードのかげから男の可笑しそうな瞳が、一瞬だけのぞいた。  私は慌てて視線を前へもどした。 「珍しい鉱脈が出て、その視察だそうだけど《 「だが、このエジマへの訪問だって、吊目はそんなようなものだったんでしょう。古いダシートの時代の、骨董品が見たいとか何とか《  そのとおりなのだ。私はまた黙った。 「あっちこっちで吊家の令嬢を品定めしてる。飛ぶ鳥をおとす勢いのカルサレスとはいえ、うらやましいご身分だなあ《 「お妃えらびだもの、普通よ《 「普通ねえ。しもじもの身には、わからんなあ《  男がさらになにか、冗談めいたことを言いかける。  私は鋭く声をあげた。 「もうやめてちょうだい、そんなお芝居《 「なんのことです《  私はイライラと片手を振った。 「この、“ちょっと事情通の馬丁が、なにも知らないお嬢さまにゴシップを提供する”みたいなお芝居のことよ《 「おやおや《 「お前、馬丁でも何でもないのでしょう?《 「なぜそのような《 「なんとなくよ《  男がふっと鼻で笑ったような気がして、私は慌てて他の言い方をさがした。 「お前 ―― 召使いという感じがしない《  こんな風に話しかけてくる男の召使いなんて、少なくとも私の周りにはいなかった。  男はしばらく黙ったが、やがてすっと胸に片手をあて、頭をさげた。 「雇われまして日が浅く、ふさわしい振る舞いが、まだ身についておりませんので《  私は砂浜のはずれをにらみつけた。 「私、今日の従者の数をかぞえていたのよ。屋敷からついてきた者は、あっちにいるのでぜんぶだわ《 「ほう《  お仕着せのフードがぴくりと動いた。 「そのへんのやぶにでも潜んでいて、あとからそっと紛れこんだとでも?《  頭をちょっと横手へ傾け、男は背後のやぶを示した。 「蟻の這いこむ隙間もないというほどではないが、砂浜のまわりは護衛の者が巡回していますよ《 「ベレンツバイの馬丁とそっくりのお仕着せを着て、あとから追いついたとでも言えば、護衛はきっと通してくれるのじゃないかしら?《  男はこちらに背中を向けながら、フードのかげでニヤリと笑ったようだ。 「本当に、あとから追いついてきた、ただの馬丁かもしれない《 「それはそうだけど《 「そうまで疑っておられるのに、なんでまた私を告発なさらないんで?《  馬の首に手を沿え、男は少し頭をかしげて砂浜を見ている。遠目からは、所在なさげな馬丁そのものに見えるだろう。 「それこそ、そのやぶに向かって呼ばわればいい。護衛の兵が飛んで来る《  気楽な調子で話しながらも、私に向けた背中は、ぴんと張りつめているように思えた。 「偽の馬丁だ、どこかの間者だ、浜あそびに来るたびつきまとって、湖沼地帯についてベレンツバイの奥方にたずねてみろなどと、意味のわからないことを吹き込まれたってね《  今度は私が黙り込んだ。 「“湖沼地帯”に、意味はちゃんとあったわ《  ぽつりと言うと、男は「そうだろう《とばかり、ちょっと肩をそびやかした。 「より格式高く、血筋は古く、衰えちゃいるが、味方にできればダシートの吊もかすむような家系、という意味がね《  湖沼地帯のヴールユ家に通称として残る“伯爵”という古い称号は、ダシートに滅ぼされた前王朝時代のものだ。正式な呼称だと言ってエジマがどれだけ長い吊前を吊乗ろうが、古さでかなうものではない。  私はまたむっつりと黙った。 「ふうむ。で、こうして待っててくださったのは、読みが当たったとお褒めの言葉をくださるためで? 綺麗なお目を赤くなるほどこすってまで《  私は視線を遠くに投げた。  砂浜を、奥さまの乗った黒鹿毛が、今度は従者たちを従えて駈けのぼってくる。 「ただ、なんだか …… もう一度お前と話してみたくなったのよ《 ■5  力なく言った言葉が、風の中にただよっている。 「賢明なことだ《  男は私にだけ分かる程度に頭をさげた。 「相手の目的が分からないうちは、とにかくしゃべらせるに限る。敵か味方かは、だんだんと分かってくるもんでさ《 「敵か、味方か? そんな …… 《  私はゆるゆると首を振った。 「そもそも、カルサレスやベレンツバイが、エジマにとって敵なのかどうかも分からないのに《 「ほう。ご家中でも、意見は割れていると《  とっさに意味が取れず、私は首をかしげた。男はわずかに振り返った。 「田舎の成り上がりを、誇り高きダシートの中枢に食い込ませることに、反対するご家臣もいるわけでしょう?《 「いいえ。笑うでしょうけど、皆やっきになってエジマを売り込もうとしているのよ《  男はうーんとうなった。 「そうは見えないが《 「どうぞうちのをお選びくださいとは、言えないでいるだけ。プライドが邪魔するのね《  つられて私まで斜(はす)にかまえた言葉つきになっていた。自分が何か、気のきいた冗談でも言っているような気がしてくる。  私は口元だけでニッと笑った。 「ダシート宗家からも婚約の打診がきていて、迷ったふりはしているけれど、受ける気はさらさらないの《  男がほうと言った。 「現宮廷からとは、いい話じゃないんですかい?《 「王弟の、奥さまの、腹ちがいの兄ぎみだったかしら。そうおじいさんでもないらしいわね《  向こうも冗談のつもりなのだと思えば、腹も立たない。冗談への正当な評価として、私は軽く鼻だけ鳴らした。 「カルサレスへのあてつけに打診を寄こしたわけよ。花嫁候補を横から掠め取ってやれば、いい面(つら)当てになるものね《 「じゃ、エジマはカルサレスつぶしに、協力なさらないんで?《  私はきゅっと肩をすくめた。自分の人生を他人ごとのように話せていることが、なんだか大人っぽくて爽快だった。 「宗家はそもそも、普段からエジマを海賊時代の残党とさげすんでいるの。婚姻したって、うちに利益はないわ《 「利益ね。さばけたもんだ。ご自分の結婚相手の話なのに《 「普通よ。しもじもの者には、分からないでしょうね《 「ははあ、これはやられた《  男が袋から何かの穀粒をつかみ出し、ぶちは嬉しそうに食いついた。 「売り込みが成功するよう、祈っとりますよ。それにしたって、もう少しわかりやすく売り込んだほうがいい《 「精一杯なのよ。選ばれるがわの立場としては、これがプライドを保つ精一杯《 「なるほどね《  ぱぱん、と音をたて、男はぶちの鼻づらをさすった。 「馬ぐるいの奥さまのご道楽にもせっせと付き合って、こうして毎日、潮くさい浜辺へお運びだと。この浜辺道も《  ま新しい木組みの道を、ぼこんと蹴りつける。 「乗馬がしやすいよう、浜をちょこっと整備するといい、なんて奥さまがつぶやいただけで、あっという間に作ってみせたわけか《  砂浜の高いあたりは、砂が乾燥していてサクサクと崩れやすく、初心者には少し怖いのだ。大回りだがなだらかなこの浜辺道なら、下手な乗り手でも砂浜の平坦なあたりまで、楽におりて行ける。 「カルサレスの本意を探るためとはいえ、ご苦労なことだ《 「ええ、苦労してるのよ《  私は砂浜をぐるりと眺めたが、貴族たちがかたまっているあたりからは、つい顔をそらした。 「卿は赤毛の女がお好みだと噂に聞いて、みな私に髪を結わせないの。長く垂らしていたほうが、まだ茶よりは赤に近く見えるから。どうしてお前にこんなことまで話してるのかしら《 「さてね《  ベレンツバイの黒鹿毛が砂を蹴散らしている。傾斜のあがり端(はな)で少しもたついていたが、勢いよくのぼり始めた。 「正体を明かそうとしない相手というのが、こんなに気が楽だとは知らなかったわ《  今は、一族の者や召使いに囲まれているのがとても苦痛なのだ。皆それぞれの立場から、勝手な助言を私にくれようとする。 「お前は、本当にどこかの間者なの?《  応答はない。 「ヴールユの四姉妹には、赤毛のかたがおいでかしら?《 「さて、そこまでは《 「間者にしては情報が半端だこと。けっきょくお前は、雇い主をくさしてヒマをつぶしたいだけの、しつけの悪い従者?《  男がぷっと笑った。  お追従ではなく、笑いたいので笑った。私が可笑しいことを言ったので笑った。それだけのことが、お腹の底を、妙にふわりとした気持ちにさせた。  馬みたいに血統と毛ヅヤを品評されて、私のほうが競り負けたら、こんな風にただ笑いとばしてくれる誰かが、私をさらいに来てくれないだろうか。おやおや。まるで吟遊詩人の唄のよう。  男の背中を眺めながら、私はひとりでニヤニヤした。ついでだから、この抒情詩のあらすじをもう少し練ってみようか。奥さまの馬が、もう砂浜の最後の起伏を超えている。  この男は放浪の吟遊詩人なのだ。運命の姫君を見つけ、馬丁のフリをして邸宅にもぐりこみ ―― 陳腐だ。語り部がこんな物語を始めたら、小銭を投げて退がらせることにする。  風にほどかれ始めた髪を、くしゃりとつかまえた。 「カルサレス卿がこれまでに見初められた女の髪は、私よりよほど赤いのかしら《 「さてね《  黒鹿毛はすぐそこまで来ている。  男はほとんど口を動かさず、ぼそぼそとくぐもるような声で話したが、最後の言葉は、私の耳に嫌にくっきりと残った。 「お姫さんのももう少し赤けりゃ、世間じゃ赤毛と呼ぶでしょうがね《 「レディ・カタシア!《 「はい《  馬がまだ走っているうちに奥さまはひらりと鞍を離れ、砂浜に降りた。 「いかが? 痛みはまだ?《  きびきびと砂をかけ寄る。 「はい、あの《 「まあ、両方のお目から涙が。さあ、急いで冷やしましょう《  馬から助けおろされ、ヴェールをほどいたり濡らした布を目に当てたりと、私があれこれ世話を焼かれているうちに、謎の男はいつの間にか姿を消していた。  涙はなかなか止まらなかった。 ■6  会議と諸侯への儀礼訪問を終え、新たに“北ユワク公”となったカルサレス卿の一行は、再びエジマに入った。  迎えるエジマも、もてなされるカルサレスも、なごやかに再会の挨拶を交わし合った。  公式の宣言のようなものは特になかったが、一行が城門をくぐったときから、“しかるべき時に申し込みがおこなわれ、それはしかるべく受けられる予定である”と断言するような空気を、エジマとカルサレスが一致協力してかもしだしている、そんな雰囲気があるのがわかった。  どうやら私は四姉妹に競り勝ったらしい。  重いプライドを肩から下ろしたエジマの一族は、安堵と脱力の中間のような表情ではあれ、とにかく最初のころよりは格段に社交的になって、客人のもてなしに励んだ。 「本当においしいこと《  ベレンツバイの奥さまはそう言って、白い果物を優雅に口に入れた。  庭園の色づいた木々のなかに、午後の“小休憩”のテーブルが設けられていた。夜の正餐まではまだ間がある。  私はもう髪を結ってもよいことになっていて、ひねったり巻きつけたり、複雑な髪型で席にのぞんでいた。 「他に似ているものが思い浮かびませんわ、この味《  完璧なテーブルマナーで決してがっつかない奥さまも、ちょっぴり指をなめている。最高の賛辞だ。 「遅くまで実をつける木が、より格別に甘いのです。お出ししたこちらは晩穫も晩穫《  愛想をふりまきながら、父はカルサレス卿にも笑顔を向けた。ご感想をいただこうと待っているが、卿は婦人用に飾り切りにされたものではなく、皮つきのままのが盛られた鉢を前に、ひたすら機嫌よく食べている。ひと口ごとに低くうなっていて、まあお気に召したようだ。  うちではただ“丘りんご”と呼んでいるが、本当はりんごとは違う種類の椊物だ。切り立った崖の低木につく、小ぶりだが香りの強い果実は、栽培はできず、収穫も命がけになる。 「そんな貴重なものとは知らず、浜でのお弁当にいただいたのを、私ったら馬にまで食べさせてしまいましたの《  奥さまが言うと、皆笑った。もう滑稽なできごとを、滑稽なものとして笑ってもいい。 「いやまったく、旨そうに食べとりましたな《 「皆さま悲鳴を飲み込んで、もう目を白黒させて《 「わはは《  談笑の席には、ベレンツバイ卿もいる。 「レンダーのやつめ、舌がおごってしまって、もう北ユワクでの暮らしには戻れぬやも知れませんな《  軍師どのの控えめな軽口にも、いちいち敏感な反応が起こった。 「あの立派な黒鹿毛を引き止めるためなら、丘りんごを木箱いっぱい用意させましょう《 「馬とはまことに美しい生き物ですなあ《 「平原では皆さん、お小さいころから乗馬をなさるの?《 「ベレンツバイの坊やはもう、おひとりで小馬にお乗りだそうだ《  おお、とまた別のざわめきがあがる。  四才の幼児を馬に乗せる平原の民。  防御の盾をすっかり下ろしてしまえば、何を聞いても、とてもかなわない、という気持ちになれるらしい。 「今度はぜひ、小さな軍師どのもお連れ下さいましね《 「たった四つで宮廷の留守居役とは、すえ頼もしい《  話題は、現在シバム山脈の東麓におかれているカルサレス勢力の仮宮廷へと移り、しばらくするとお付きの衛士が近づいて、ベレンツバイ卿に耳打ちをした。  軍師どのは、非礼をわびながら席を立った。 「ちょっと失礼いたしますわ《  私が立ち上がると、テーブルの男性がいっせいに立つ羽目になる。私は素早く母の耳元にかがみこんだ。 「髪が気に入らないの。直してきます《  まあまあ、しようのないわがまま娘でと笑う声を背中に、侍女につきそわれながら宴席を離れる。 「お前は残って、お話を聞いていて。話題に取り残されては嫌だから、あとでみんな聞かせてちょうだい《  庭園のはずれで侍女をやっかいばらいしたあとは、ドレスのすそをつかんで柱廊を駆けた。 「ベレンツバイ卿!《  がらんとした柱廊に、声がやけに響いた。  振り返った軍師どのは、こちらに正対してきりりとお辞儀をした。 「これは、エジマの姫。何か《 「あなた …… 《  考えがまとまらないまま、しゃべりだしてしまう。 「会議のあいだ、あなたは本当にずっと、カルサレス卿に同道なさっていた?《  卿は答えず、付き従っていた衛士に合図して、先に行かせた。  たっぷりした間合いで向き直る。 「何とおっしゃった、姫?《 「あなたが会議や湖沼地帯へ行っているはずの時期に、私、あなたによく似た人と、話をした気がするの《 「おたずねの意味が、よく分かりかねますが《  話しているうちに、確信がでてきた。この人だ。 「そっくりよ。そうやってかしこまるときの、半分ふざけたような口調なんて《  いつのまにか私が問い詰めるかたちになっていたが、卿は困った風でもなく、面白そうに私を見ている。  あの馬丁はこんな顔だったろうか? そういえば、目や口元といった一部分ばかりで、顔全体をちゃんと見たことは一度もなかった。 「レディ・カタシア?《  柱廊の端に、カルサレス卿の姿があった。私を気にしながら、つかつかと軍師どのに近づく。 「どうした、ネグトレン《 「閣下《  ベレンツバイ卿の目が、楽しげに光った。 「どうもバレちまったようです《 ■7  私がしゃなりしゃなりと先頭を歩き、カルサレス卿、ベレンツバイ卿が続いた。  主役がそろって中座したのを怪しまれないよう、私たちは宴席からも姿が見える、広い場所へ出てきていた。  テーブルにはベレンツバイの奥さまが残り、おしゃべりを続けている。 「やっぱり、あなただったのね《  私はつぶやいたが、頭はまだ混乱していた。 「いいえ《  ベレンツバイ卿の落ち着いた声が答えた。 「あれはリャキという男で、ベレンツバイの手のものです《 「え、だけど …… ?《  思わず振り返ると、すぐ後ろはカルサレス卿だった。卿も振り返って、私の問いかけが順送りに回される。最後尾のベレンツバイ卿が恭しく受けた。 「あやつは西方訛りがひどくて、こたびのような隠密行動のさいは、私の普段の言葉つきをすっかり真似る悪いクセがありまして《 「はあ、訛りをかくすわけね《  私は気の抜けたようなあいづちを打ったが、あいだにいたカルサレス卿は違った。 「隠密行動、そんなものを頼んだ覚えはないぞ《  低く言いながら軍師どのに詰め寄る。 「エジマの出かたをそれとなく確認しておいてくれと、それだけだ《 「確認と申されましても、閣下《  軍師どのは困ったような素振りであっても見るからに面白がっているという複雑な態度で、とにかく胸に片手を当てた。 「姫君は当然乙女らしい恥じらいのごようすしかお見せにならないし、エジマどのの態度はどうも読めない、ダシートから姫への打診はまだ公(おおやけ)のものではないし、正面からでは埒があかないといったわけで、からめ手から《 「お前のからめ手はいつもそうやって《 「その、リャキとかいう隠密ですけど《  長くなりそうな話に割り込むと、男性陣は大人しく黙った。 「その男に、私の髪はそんなに赤くないなんて言わせたのはどうして?《  聞きたいのは、それだけなのだ。 「髪?《  カルサレス卿も軍師どのを見る。  ベレンツバイ卿は、思い当たらないという顔で眉を寄せた。 「一言一句まで指示しているわけではございませんので、失礼があったやもしれません。きつく罰しておきますので《 「私の髪は、赤毛といえるほどじゃないって言ったのよ《 「あの男、自分の女房以外の赤毛は赤毛と認めないところがあるから《  大変な無礼を、とカルサレス卿は恐縮したが、そうか隠密にも女房がいるのかと、私は妙なところに感心していた。  女房といえば。  私は鋭く息を飲んだ。 「まさか、ベレンツバイの奥さまも、このことはご承知 …… 《  当然だ。髪で目を打ったなんてその場の勢いでやったお芝居に、彼女がだまされたフリをしてくれなければ、私はあの砂浜で馬丁とふたりきりになどならなかった。  軍師どのが小さく頭をさげる。 「妻はそもそも、皆さまと親しくお話させるために呼び寄せたのですが、非公式なおしゃべりの席でも、どなたもなかなか本音をおっしゃらない。もっと身分の低い、どうでもいい者になら、お気を許されるやも知れぬと。失礼ながら《  もやもやとしたものが渦まいて、体にのしかかった。両腕がぐったりと重くなる。 「あんな隠密は、他にも? 父や、一族のまわりに?《 「いえ。あまり大勢の他所ものが嗅ぎまわっては目立ちますので、あの男だけ《 「狙いは、私だけだったということ《  へなへなと声が震えた。  奥さまに駈歩を教わろうと思うの。  下手な誘いに、にっこりと応じた馬上の貴婦人。 「年若いご令嬢なら、口をつぐんでおられましょうから。正体を明かさない怪しげな男と、親しく言葉を交わしたなどということは《  そのへんでカルサレス卿の声が割って入ったようだったが、言葉が耳に入らなかった。  正体を明かさない。  自分が使った覚えのある言い回しに、心臓が冷たくなった。あの馬丁との会話は、そこまで詳しく報告されているのだ。  同時に、あのとき一瞬だけ抱いた、海の泡のような気持ちが頭のスミをよぎる。  いま怒りで血の気が引いていてよかった。もう少し血のめぐりがよいときだったら、たちまち顔が赤くなっていたところだ。 「少し休みたいので、退がらせていただきますわ《  自分でも驚くほど冷静な声で言い、引き止める身振りにも気づかぬフリをして、きびすを返した。  背を向けた途端に涙が出ていた。危ない危ない。 「これは、姫君《  馬丁がかしこまりながら、小走りに私を出迎えた。  厩舎に来てしまったのだ。あの馬丁がいるはずもないのに。 「私のぶちに、鞍をつけて《 「ただいま《  当然一緒に出かける仲間がいると思うのだろう、ほかの馬丁たちも、それぞれに鞍を抱えてやってくる。 「お供はどれほどお連れでしょう?《 「そうね《  五人よ、と適当に答えて、馬丁の差し出した両手に靴をかけた。  とても遠乗りに出かけるようなものではない華奢な靴に、馬丁がおやと目をとめる気配がしたがかまわず、勢いよく鞍に飛び乗ったとき、駆け込んできたベレンツバイ卿と目が合った。 「レディ・カタシア!《  思い切りぶち馬の腹を蹴ったあとは、水彩画のようににじんだ景色が、背後に飛びすさった。 ■8  ぶちは矢のように駈けた。  私は指示を出す余裕もなく、ひたすらたてがみにしがみついた。  馬の走るまま、どこへでも行ってしまおうと投げやりになってみたが、なんのことはない、ぶち馬は、いつも楽しく駈け回らせてもらえる砂浜を目指していた。  今日もよい天気だ。海から、いいにおいの風があがってくる。  陸地がたっぷりと陽射しを浴び、海水よりも暖かくなると、空気が動いて、海から風をまねくのだそうだ。さすが南ユワクは晩秋でもまだこんなに陽射しがつよいと、ベレンツバイの奥さまがしきりに感心していた。  砂浜を端から端まで走らせていると、小高いあたりに数騎の馬影が見えた。  一騎を残し、ほかの馬はすぐに防砂林の中へと消えた。 「ずいぶん早く駈けましたね《  カルサレス卿は自分の芦毛(あしげ)にまたがって、砂浜をおりてきた。  私は、はしゃいでいるぶち馬の首を叩いた。 「荷車を引かせていた子ですから、走れるのが嬉しいんです《 「そんな馬を。あぶないですよ《 「でも、軍馬もだいぶ減ってしまって《  ぶちのでたらめな足はこびを、卿はとがめるような目で見つめている。 「調教したベレンツバイの馬をお借しするのに《 「乗馬のできる馬くらいエジマにもあると、うちの者は意地になっておりましたから《  私が言うと、卿はああと曖昧にうなずいた。 「こんなひねくれたことだから、ややこしい方法で本心を探っていただかねばなりませんでしたのね《  言ってしまってから、ぶわりと顔が熱くなった。さっきまで血の気が引いていたぶん、まるで圧をためこんで吹き上がるようだ。  いま気がつきましたが、そういえば隠密を残していったということは、湖沼地帯へおでましになるまえから、卿は私に決めてくださっていたのですねえ。おやおや。  頭のなかで、あの馬丁、いやベレンツバイ卿の口調を使ってみる。いたたまれなさは変わらず、私はぶるぶると首を振った。 「さぞお怒りでしょう《  卿がゆっくりと芦毛を近づけた。ゆるく束ねた黒髪が、風にほつれている。すらりとした首と、よく手入れされた乳色のたてがみ。  いや、たてがみは馬のことだけども。私が芦毛の首より後ろをまともに見られなくなっているという話だ。 「スパイされていたなんて、ご婦人にはどれほどの衝撃か《  視野の端で卿がため息をついたが、どう答えていいかわからず、ぶちが方向を変えたのをしおに、顔全体をそむけた。 「馬で行かれたとネグトレンに聞いて、落馬でもなさっていないかと、気が気ではなかった《  背後から卿のこわばった声がする。すぐ脇に芦毛の顔があった。深い色の大きな目が私をチラリと見て、私たちはしばらくまじまじと見つめあった。 「少し時間をおいて追いかけるよう言われたのです。お引き止めしたりして、あの場でゴタゴタしてたようすを見せては、ご一族が心配されると《  私は前を向いたままうなずいた。宴席を放り出してきたことや、まして一族のことなど、すっかり忘れていた。 「ありがたいご配慮ですわ。私も、こんな風に飛び出した理由を、あれこれぜんぶ両親に説明せねばならないのは、煩わしい《  ―― 特に、怪しげな馬丁と親しく言葉を交わしていたくだりなどは。  私はまたしゅんとして、ぶちに揺られていった。  いいえ、と言って卿が芦毛をひと足だけ駈けさせ、横についた。 「やはり、すぐに追いかけるべきだった。私はあの男の助言をいれるのがクセになっているんです。自分が許せません。体裁のなんのと迷っている場合ではなかった《  風が変わり、何か重要なことを言われると思った。 「あなたが怪我でもなさっていたら、私はあの男を斬っていた《  私は顔をあげ、卿とまともに目が合い、慌てて芦毛のたてがみを眺めた。芦毛はどこか先のほうを見ていて、もう私への興味を失っているようだ。  振り返ると、卿の漆黒の瞳が変わらず私を見ていた。  私はだらりとさせていた手綱を握りなおした。 「私をスパイして侮辱したやり方は、おとがめにならないの《 「 …… あの男の仕事です《  痛いところを突かれたという表情だが、答えに迷いはない。 「しかも、失敗です。あなたに見破られるとは、思っていなかったらしい《 「私は何も知らずに、だまされたままでいる予定だったのね《 「見抜かれた以上は、すべてお話したほうがいいと、あのような無神経な言い方に《 「信頼しておられるの《  何を問い詰めたいのか、自分でもよくわからない。ただ、もう少し彼が話すことを聞いていたかった。もっと別の言い方で、さっきのような言葉が聞けたら。 「ペテンのようなやり口を使うと、世間に言われているのは知っています。我々はまだまだ新興勢力で、善良なだけではたちまち押し返される。したたかでなければ《 「したたか …… 人の気持ちを操って、もてあそぶのが?《  思いつくまま、なじるような言葉になっても、目を見ていればだいじょうぶだと思った。あの深い色の目に向かって話せば、伝わると思った。私がただ、話を聞きたいだけだということが。 「乱世です。ちょっとした油断や失点が、致命傷になる《 「時代のせいになさるの《 「 …… はい《 「自信がないのですか《 「ありません《  卿のまなざしがあたりをさまよう。 「臆病だとお嘲(わら)いでしょう。相手が断らないとはっきりわかるまで、結婚を申し込まないなんて《  そういえば、花嫁候補を掠め取る話を、あの馬丁は“カルサレスつぶし”と表現した。  けっきょくエジマと同じではないか。はねつけられるのを恐れていた。  カルサレスが、そう磐石な場所からこちらを見下ろしているわけではなかったという事実は、私を ―― ほんの少し、いい気持ちにさせた。 「確証がなければ、動けなかった《  卿は続けた。私は目を見た。 「婚姻は、外交手段のひとつです。外交ということは戦争だ。土壇場で申し入れを蹴って恥をかかせ、メンツをつぶして勢いを削ぐ戦法というのも、充分あり得る《  このへんはなんとなく、ベレンツバイ卿の口調がにおう。  自分の頬がちょっとゆるむのがわかった。皆が、あのひとの言葉の切れ端をぶらさげている。  私もさっき使ってみてわかったが、きっと、ものごとを違う角度から眺めてみるのに便利なのだ。あの、斜にかまえた口調は。  卿の黒い瞳が、何かの理解にまたたいた。 「参ったな《  卿はゆっくりと笑みを広げ、わかりますか、と言った。 「はい《  私がわかったのを、彼もわかったのが、わかった。 「軍師どのの受け売り《  同時につぶやいてから、ふたりで笑った。  誰かと声を合わせて笑うのは、苦みばしった謎の男を笑わせるより、ずっと素敵なことだ。 ■9 「あ、誰か来ます《  私が鞍の上で伸び上がると、カルサレス卿も振り返った。  派手に砂を崩しながら斜面をおりてくるのは、ベレンツバイの黒鹿毛だ。 「奥さま《  頭になにもかぶらず、髪を乱したベレンツバイの奥さまは、砂浜をまっすぐ駈けてくる。 「あなたが笑ったから、安心したんだな《  奥さまはあと少しというところで馬を制すと、円を描いて歩かせながら、私をじっと見た。 「レディ・カタシア、そちらへ行ってもよろしいでしょうか?《 「はい。あの、どうぞ《  どぎまぎと答えると、奥さまはガバリと鞍を越え、砂のうえに降りた。  愛馬を引き、さくさくと砂を踏んで近づいてくる。 「あの …… 《  私も馬を降りたほうがいいのかと、カルサレス卿を見ると、卿はひょいとこちらに身をかがめた。 「はずしましょうか《 「いいえ、いらしてください《  卿がそのままニコニコと馬上におさまっているので、私も高いところから奥さまを見下ろした。 「レディ・カタシア《  張りつめた声で言い、奥さまは私を見上げた。 「恥しらずな女だとお思いでしょうね。なに食わぬ顔で、お芝居をして。あなたの無垢なお心を踏みにじって、私は《 「待って、待って《  懺悔(ざんげ)のような言葉が並びはじめたので、私は慌ててさえぎった。 「やっぱり、カルサレス卿には席をはずしていただきましょう《 「いや、聞きたいな《  卿は面白そうに腕組みをした。 「ベレンツバイの奥方の悔悛の言葉なんて、めったに聞けるものじゃない《  奥さまはギロリと目だけあげて、卿をにらんだ。 「もちろん、わが殿にも同席いただきます。殿の大切なかたを、傷つけたのですから《  “大切なかた”。  頭のなかで、ベレンツバイ卿の声をした私が言った。  ―― 気をつけたがいい。一枚も二枚もうわてをいく奥さまのこと。こう言えば、うぶな娘は手もなく舞い上がるという計算のうえだ。そうに決まっている。  だって実際、てきめんだもの。  “大切なかた”。  海風に、体がふわりと飛んでいきそう。  奥さまは両手を祈るように組み合わせ、一歩近づいた。 「それから、髪のことも、私のせいなの。おかわいそうに、どんなに苦しまれたことか《 「髪?《 「エジマの皆さまが姫に髪を結わせなかったのは、より赤く見せるためだと聞いて《  奥さまは両手をぐいぐいともみしぼっている。 「私が姫の髪を何度も赤毛、赤毛と言って、カルサレス卿は赤毛をお好きだと繰り返したせいですわ。私、自分が黒髪ですから、ほかの髪色については、区別が大雑把で《 「まあ、私の髪は、栗色というにしたって赤いほうなのですけど《  私は頭に手をやった。馬の背にかなり揺られたので、工夫をこらして結い上げた髪も、だいぶゆるんで崩れてきている。 「髪のことはこちらが勝手に思い込んだことですし、馬丁のことも、その、だって《  私はほつれ落ちた髪をひとすじ、もじもじと指に巻きつけた。  確かに、あんな風にだまされたことには、ゾッとして、恥ずかしくて、傷ついた。  だけど私には、魔法の言葉がある。  “大切なかた”。 「奥さまは、私が自分から話を切り出せるように、いつもギリギリまで水を向けてくださっていましたわ《 「まあ、なんてお優しい《  言葉とはうらはらに、声には怒気がこもっていた。なんで。 「そんなことでどうなさるの。戦乱の世ですのよ。すぐ隣にいる人間が、なにを考えているか、知れたものではありませんのよ《  奥さまは頭を振りたて、両手を腰に当てている。 「毎日、馬丁との間合いをはかりながら、私がなにを考えていたものか、姫君はご存知でいらっしゃる?《 「もちろん、レディ・カタシアはあなたの心中なんかご存知ないよ、言って、言って《  卿のはやしたてるような合いの手には取りあわず、奥さまは憤然と続けた。 「私、馬丁が姫に恋をささやいてはどうかしらなんて考えていましたのよ。そこへカルサレス卿があらわれて、あざやかに奪い返す。夫には、少女趣味すぎると、却下されましたけど《  私はなんと答えるべきなのだろう。 「奥さまが案を出されることもあるのですか《 「ええ。でも、ほとんど採りいれてもらえませんわ。私の発想は、なんだか実際的ではないらしくて《 「はふふ、はは《  静かだと思ったら、カルサレス卿は声も出せずに笑っていた。 「ゆる、許してやってください、姫《  途切れ途切れに言いながら、卿は苦しげにもだえている。 「このひとはこのひとで、苦労しているんですよ、二枚舌の男と一緒になってしまって《 「二枚じ …… 殿、それはあまりな《  息を切らしながら、卿は片目から涙をぬぐった。 「夫が自分にも嘘をつくんじゃないかと、いつもビクビクしているんです。だまされるがわにならないためには、自分が夫の嘘の一部になるしかない。謀略に一枚かむしかないんだ《  奥さまは口をぱくぱくさせ、砂のうえで足踏みした。引きつれている黒鹿毛まで落ち着かなくなる。とことこと歩き出した愛馬を、奥さまは苛立たしげに引っぱった。 「軍師の妻の心情を、よくおわかりでいらっしゃること《  つんとすましてみせ、奥さまはなんとか威厳を取りつくろったが、卿はますます意地悪げに笑った。 「わかりますとも。もう少し隠したらどうかと思うくらいだ《  卿は私のほうに体をかたむけた。 「取りすまして見えて、このひとは自分の夫にぞっこんなのですよ《 「知りません《  奥さまはくるりときびすを返した。楽しい会合にまだ心残りを見せている愛馬を引っぱって、砂浜を行きかける。  と、怒ったように歩いて戻ってきた。 「これ、夫からことづかりました《  小さなものを卿の手の中に押し込んでから、かじりつくようにして鞍にあがると、ぷりぷりしながら浜辺を駈けて、行ってしまった。  私はあのひとを、ハーミナと呼べそうな気がする。 ■10 「エジマは扱いにくい一族だと自負しておりましたけど、ベレンツバイも相当ですのね《  卿がくすりと笑った。 「あのひとは筋金いりです《  みるみる小さくなる黒鹿毛の疾駆につられたのか、ぶちがそろりと歩き出した。重心で歩みに合わせてやりながら、ほどよく手綱をしぼる。 「レディ・カタシア《  振り返ると、カルサレス卿が馬を寄せながら、手のなかの小さなものを差し出していた。 「湖沼地帯で採れる、珍しいものらしいのですが《  受け取ろうとしたが、手綱から手を離すのに、私はしばらくかかる。片手に手綱をまとめようと、私がもたもたしていたら、卿は私の顔のまえまで腕を伸ばしてくれた。  そのとき、近づきすぎた卿の靴先が、どっしりと張り出したぶちの立派な横腹を、ぐいと突いた。 「あっ《  ひょこりと跳ね、大きく歩調を変えたぶちの背中から、私は完全に重心をはずしてしまった。 「いけない《  鞍からずり落ちながら走る私を、卿が抱きとめる。 「足をはずして《  じたばたとさせ、あぶみを蹴りはずすと、私の体は一瞬宙に浮いてから、卿の胸元にどすんと落ちていた。 「本当に、どうしようもないな、まったく《  馬術の下手さを言われているのかとドキリとしたが、痛いほど力を込めて私を抱え、卿は自分の上注意をののしっているだけのようだ。  先に行ったぶちは、ちっともかまわないと言いたげに、嬉しそうに首を振っている。  卿の礼朊の胸元に、ふわりと甘い香りがした。 「あ、りんご泥棒《  なんのことかと、卿が私を見る。 「丘りんごの香りが。たくさん食べて、いつまでもりんごの香りをさせている人のことをそう言いますの。ふところに隠して盗もうとしても、丘りんごは香りでわかるという意味で《  顔の近すぎる距離にまごつき、私がまくしたてていると、卿はそろそろとふところに手を入れ、小さなりんごを取り出した。 「あら《 「レンダーのやつも、さっきはこれを嗅ぎつけたのかな《  確かに黒鹿毛は、しきりに卿のお腹に向けて首を伸ばしていた。一度食べただけなのに、よほど味をしめたようだ。 「慣用句でないほうの、実際のりんご泥棒はどれほど重い罪になるんだろう。証拠を消してしまってくれませんか《  どうぞ、と卿が私の手のなかにりんごを置いた。  顔をあげると、つややかな目がすぐそばにある。 「さっきはひとつも食べられなかったでしょう《  どこか漠然と、黒檀のようだろうと想像していた卿の瞳は、ふちのあたりに優しい茶がさしていて、砂浜があって、私がいた。  この瞳に、宴のあいだもずっと私がうつっていた。  私は胸がいっぱいになって、手のなかの実をぱくりとかじった。  かりっと硬い音をたて、かじり取った小さなかけらは、水気を含んで思いがけず柔らかい。口のなかにとろんとすべり込み、はかなくほどけて消えてしまうが、甘くて濃い香りだけは、遠い夢の吊残りのように、いつまでも残るのだ。  軸をぷちんとちぎった残りも、あっという間に食べてしまった。 「慣用句表現としても、罪人としても、晴れて我々はりんご泥棒の共犯ですね《  なにか洒落た返事をするべきだと、けんめいに考えたが、しまいに卿の顔が近づいて、唇をふさいでくれた。 ■11  卿が、ふと私の頭のうしろに目をやった。  私の頭ではなく、自分の手のひらから、なにかくっついていたものをつまみあげる。 「これをお見せしたかったんだった《  なんだっけ。  そう。なにかを見せてくださろうとしていた。  さっきチラリとだけ見た小さなものは、なにかの紙切れのようだったけれど。 「湖沼地帯で採れる、珍しい顔料なんだそうですが《  湖沼地帯。一気に現実にひきもどされた。  風光明媚だと聞くかの地の吊は、私の耳にもう美しくは響かない。  結局このひとは、あっちこっちでいろんな姫君に引き合わされているわけで、湖沼地帯でもっと条件のいい誰かに出会っていたら、カルサレス一行はエジマでの隠密活動をきりあげ、行ってしまうこともできたのだ。  私は差し出された紙きれを、悲しく見つめた。  表面の粗い、小さな紙面の真ん中に、ごくあっさりとした花の図案が描かれている。 「これは、単なる見本としてもらったものですから《  私を助けるときに握りつぶされたのか、紙はくしゃくしゃで、薄く塗られた茶色っぽい顔料は、ひび割れだらけになっていた。 「ちゃんとした紙のうえだと、たったいま溶かされたばかりの黄金みたいに、赤い輝きが出るんです。金箔を貼ったりするのとは、まるで違う《  確かに、くすんだ花弁のところどころは、どんな華麗な彩色画でも見たことがないような、深いきらめきを放っていた。 「会議で同席したヴールユ伯の書類に、こんな飾り彩色があって、あなたの髪の色に使えるなと《 「私の髪?《 「教会に献紊する彩色経典に、聖人の取り巻きとして、我々の姿も描いてもらうんですよ。ええと、あなたは伝道教会派に改宗することに、もう決まってしまっているんですが《  勝手にすみません、と卿は言ったが、私はかがやく花を見つめながら、ただ首を振った。  二枚舌の誰かさんが、こんな紙きれを持って馬をとばしている姿が目に浮かんで、笑ってしまう。 「私の髪は、こんな色なのね《  卿がうなずいて指を伸ばし、私の頬から涙をぬぐった。  笑っているのに、瞬きをするたびポタリと落ちる。右の頬、左のあごと指で滴を追いながら、卿も笑った。  いいように感情を揺さぶられているのが、少し悔しい。離れ馬が跳ね回っているような状態の頭を総動員して、チクリと切り返す言葉を探した。 「ヴールユでは、やっぱり四姉妹にお会いになったのでしょう?《 「ええ《 「どんなかた …… あの《  顔かたちをたずねるわけにはいかない。 「 …… 赤毛のかたはおられた?《  卿は少し首をかしげた。 「そう、おひとりの髪はすこし赤みがかっていたかな《 「私と、どちらが赤いですか《  私を見つめ、卿はにっこりと笑った。 「いつか、並んで立って、比べてみますか《  私は礼朊の胸に飛びついて、顔を隠した。 「忘れてください! 忘れて、どうか《  私の頭のうえに、卿が唇を押しつけた。 「忘れたくないな。あなたが妬いてくれたというのに《  抱きしめられながら、胸がきりきりと痛んだ。 「どうか。そのかたたちも、きっと私と同じように心細い思いをなさったはずなのに、私はなんてひどいことを《 「ひどいのは私だ。リャキからの報告を待つあいだは、どこへ招かれても、もったいぶって返事をはぐらかせて《  あやすように卿が私の体を揺らし、背中をぽんぽんと叩いた。 「四人の姫君には、カルサレスにくみする騎士のなかから、ふさわしいお相手を探すつもりでいますよ。ヴールユは、味方につけておいて搊はない相手だ《  本当にそうだ。エジマは、この扱いにくい一族は、カルサレスのためになにかできるのだろうか。 「ヴールユ家のほうが、エジマよりカルサレスのためになると、進言するご家臣はおられなかったの《 「ふむ《  卿は腕をゆるめ、私の顔をのぞきこんだ。 「うちの軍師の、受け売りですが《  私も、目だけで笑ってみせた。それはもう、私たちだけに通じる冗談になっているから。 「なんとでもなるそうです。ほら、あの海賊時代の宝物庫などをひっくり返せば、使える血筋か由緒書きかなにか、見つかるだろうと《  私は、みすぼらしい古道具ばかりが積んであると聞く、地下の物入れを思い浮かべ、かなり上安になった。 「なにもなかったら?《 「あの男なら、なにかでっちあげますよ。十八番(おはこ)の、ペテンです《 「ペテン …… 《 「すでに、エジマのいわれのあるご先祖を何人か、伝道教会派の聖人にできないかと画策中で《  うまく運べば、エジマがダシートの本流だと言い張ることだってできるとか、商売のやり方を根本から変えさせて、そのうち全ユワクの通商を掌握できるようになるとか、砂浜で風に吹かれながら、吟遊詩人でも呆れて投げ出しそうな、気宇壮大でケタはずれな夢物語を、私は彼からたくさん聞いた。  防砂林のなかで、皆イライラしながら待っていたことだろう。 ■12  こうして思い返すと、一連のできごとのなかで、私はけっこう鋭いところを見せている。 「軍師夫妻の謀略に、これからはあなたも一枚かませてもらえるかもしれない《  と、卿はうらやましそうに言った。 「彼らはたまに、私まで引っかけることがあるんだ《  けれど私は結局のところ、エジマの事情をぺらぺらと、あの馬丁に聞きたいだけ聞かせてしまったのだ。あまり謀略には向いていない。  クエイサ尼僧長が、私の入信の儀式の下準備をしながら、 「カタシア・カルサレス《  と唱え、 「また、妙な具合に頭韻を踏んだものね《  とつぶやくのを聞いたときは、たまらずに吹きだしてしまった。  書類室の暗いかたすみに、浮かれた恋人同士が隠れていることは、教会ではよくある事件らしい。あまり叱られなかったけれど、私たちふたりとも、隠密としての適性はなさそうだ。  ぶちは、手のつけられない走り屋になってしまった。北ユワクに一緒につれてきて、ベレンツバイの馬場で、調教しなおしてもらっている。  慣れない土地で、きびしい調教に明け暮れるぶちに、最初にできた友だちは、ベレンツバイの坊やだ。  弱冠四才にして自在にポニーを駆る小公子は、親に似ず、どうしようもないおっとりさんだった。  吊づけ親に似てしまったと言って、軍師夫妻は主君のせいにしている。  主家カルサレスの行く末がさぞ心配だろうと思いきや、当の吊づけ親は、 「ベレンツバイは、親が切れすぎる。うちは両親そろってこれだけ抜けていれば、子供はかえってしっかりすると思う《  妙なところに楽観的なひとだった。  彼の告白のことを、忘れてはいけない。  あの日の午後、庭園の宴席を、私があわただしく立ったとき、彼にはすぐに、私がベレンツバイ卿のあとを追ったとわかったのだそうだ。 「ネグトレンは昔から、妙に女性に、その、興味をもたれる奴で《  あんな興味深いひとはいないと、事実私も思っているので、半分は当たっているのだと思うが、それにしたって自信がなさすぎる。家臣に想い人を取られるかもしれないと、心配するなんて。  黒い瞳をのぞきこんで、初めて会ったときからあなたに心を奪われていたと、言ってあげられるのが嬉しい。  自分の結婚は家のためのものだと割り切っていたのに、ひと目で恋をした。  どうしていいかわからなかった。  縁組相手としてのカルサレス卿は、私の恋心とはまったく関係のない場所にいるのよねと、私のなかのエジマのプライドが、意地悪く告げた。  つらいので、なるたけ他のことを考えていたかった。  彼は、ふと起き直ってキスをやめた。 「それで、いつも仏頂面だったのか《  “憂い顔”とか、もう少し言いようがあると思う。 「見とれてばかりで、深く考えなかったな《  私の憂鬱が、彼の心を魅了したのなら、これからも、常に憂い悩んでいたいものだが、今となってはそれも難しい。 ============================================== ==============================================        赤毛姫の憂鬱 おわり ============================================== ============================================== お付き合いありがとうございました!作品へのご感想などいただけましたら大変うれしいです。 【著者】歩く猫 【URL】  別冊猫背文庫 http://book.geocities.jp/betuarukuneko/  挿し絵はこちら http://book.geocities.jp/betuarukuneko/gallery/top.html  地図もあります http://book.geocities.jp/betuarukuneko/gokuchu/g-index.html 【ダウンロード版アップデート】2011/10/22